日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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著者が亡き妻の思い出を綴ったエッセイ。

ぱらりとめくってまず、カバー見返しの写真で初めて城山三郎を見て、実にかっこいいと思った。晩年の写真だろうが、男前。

この原稿は、未完で欠落あり、順不同だったものを、新潮社の編集者が一編にまとめたらしいが、バラバラで切れ切れな感じが、またいい味を出している。

最愛の妻の死に近づく終盤は、予想通り涙が止まらない。東北本線のグリーン車で、窓の方を向いて世界に没頭しながら読んだ。

冒頭。著者の講演会にこっそり参加し、著者が気付いた瞬間「シェー!」のポーズをとる妻。

『笑いたいし、怒りたい。「参った、参った」と口走りたい。そこをこらえて話し出し、何とか無事、講演を終えることができた。』

妻は後で控え室に謝りに来るが、『顔にも体にも笑いを残している』

このエピソードで、妻・容子さんのチャーミングさにやられる。その後も読めば読むほどに可愛いらしい。
シンプルな描写にこめられた愛情に胸がいっぱいになる。
わずか130ページの薄い本に、切れ切れのエピソードが、こんなに輝いている。著者の心からの愛情、感謝がぎゅっとつまっている。

学生時代にさかのぼった2人の出会いのシーンも小説か!?と思わせるほどドラマチックで胸が熱くなる。
休館日でもないのに何故か閉まっている図書館の前での出会い。
オレンジ色がかった明るい赤のワンピースを来た若き日の妻。著者の印象は『間違って、天から妖精が落ちて来た感じ。』この後の2人のやりとりも、すごくいい。

二夏もの間、家を空けて執筆に専念したが作品は没となり収穫なしの時も、
『容子は、何ひとつ文句も質問も、口にしなかった。
 それも深い考えや気づかいがあってのことというより、「とにかく食べて行けて、夫も満足しているから、それでいい」といった受け止め方であり、おかげで私は、これ以降も、アクセルを踏みこみながら、ゴーイング・マイ・ウェイを続けて行く事ができる、と思った。』

筆で身を立てようとする夫を、ごく自然に支えられる妻の姿をシンプルに表した一文で、すてきだ。

妻の茶目っ気を静かに苦笑して受け止める大人なイメージの著者だが、こちらにも少年のようなチャーミングさが感じられる。

水上機に乗ってみたいと言ったところ、妻はたいそう心配性でそんな小さな飛行機に乗るのは1度きりと約束させられ、カナダ取材中にその1度を使い果たすが、妻亡き後に、妻が亡くなった事に対しては眠れないほど落ち込んでいたくせに、
『約束は、約束した相手が亡くなれば、まあ無効。』
と、ハワイでもう一度水上機に乗り、念願の操縦を果たしてしまう。

夫婦でオーロラを見に、はるばるアラスカまで行くが、夏の白夜の季節で、オーロラが出ていても見えない。時間も費用も大きな無駄だが、妻は文句も愚痴もなく「あら、そうだったの。残念ね。」とあっさりしたもの。が、その数年後、ヨーロッパに向かう夜行便で、窓の下にオーロラを眺めることができ、2人は手を握り合い、夫婦で旅してよかった、と胸を熱くする。

この、穏やかで優しくも鋭いまなざしの著者が、他にどんな小説を書いたのか気になるので、いつか読んでみたい。
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具体的にはそれほど陰惨な事件が起こるわけでもないのに、じわりと漂う不気味な雰囲気、嫌悪感。練られた文章が、読んでいるうちに、不気味さと嫌悪感をどんどん積み上げてくれる。ストーリー自体はそれほど面白いわけではないと思うが、この雰囲気はどうしたら出せるのだろう?

主人公・佐知子の、高校生の一人息子が失踪してしまう。
息子のガールフレンドやその父親も協力してくれるが、息子は見つからない。
離婚した精神科医の夫や、その後妻や娘、息子の担任教師、など登場人物は多く、人間関係は複雑。
それらの人物、一人一人がどことなく不気味で、何を考えているのかわからない。「他人の事は本当は決してわからない」というテーマが裏になるのだろうか?

読んでいる間は、夢中になってしまうが、読み終わると、何かが残るような感じでは、あまりない。

日本各地のいわゆる奇祭を、著者は愛すべきトンマな祭「とんまつり」と名づけ、せっせと足を運んでは、どうかしている!と祭の模様をユーモラスな絵と、冷静なツッコミで紹介してくれる。
読みやすい文章だと思うのだが、何故か私のテンポに合わない感じで、祭そのものには興味が湧いたが、文章を読むのが途中から苦しくなってしまった。

原始の匂いが感じられる奇祭たちを、こういう形で紹介してくれるのは、ありがたい。
さすが名手、宮部みゆき。語りが巧い。
ややホラーな5つの短編がおさめられている。
人の弱さ、強さ、身勝手さ、妬み・・・を巧みに物語に織り交ぜてくるから、読んでいて自然に心が揺さぶられる。

最初の「雪娘」は、視覚的な印象が強い。雪が降り積もり真っ白な街、灰色の壁の無機質な場所に、赤いパーカと赤いマフラーの少女の遺体、という光景が目に浮かんでそれがずっと頭にある状態で読んだので、話がより寂しくうす寒く感じられ印象に残った。

「チヨ子」は何となく日本人形をイメージしていたが、実はウサギのぬいぐるみなのが、意外だった。前2編が人の弱さを描いて悲しい話なので、余計に「チヨ子」で描かれる人の強さは、心強くて励まされる。短いけれど、いい話だ。

幽霊騒ぎから発した噂の真相を確かめたいという娘を手伝う父親の話「いしまくら」は一番面白かった。因果応報を描いた「石枕」という昔話を持ち出し、日本人に根付いたこの考え方は次第に消えていっている、その代わりにひどい目に遭う人はそれなりの理由があるという考え方の浸透や、その背景を語り、さらに娘の偏った調査の仕方を見抜いたり、調査の結果が思わぬ真実を見つける所とか、この短さでここまで盛り込んでそれでいて面白さを保っているのは、さすが。

「聖痕」は神とか正しさなどがテーマで、短編で語るにはやや重いせいか、話が唐突で、物足りなさが残る。
このミステリーがすごい第7回大賞受賞作家の最新作!!という帯に惹かれて買ったが、期待したほどではなかった。

四国の小さな城下町の、3人の高校生の物語。
入学したばかりの亀井カズキは、ひょんな事から、地元で有名な「ネコ」こと猫沢ハジメと、「イヌ」こと犬崎タダシと知り合い、テンポよいタッチで青春が語られつつ、ちょっとした謎解きが物語りに加わる。その青春ぶりが、ちょっとストレート過ぎたり、謎解きが他愛なさすぎて物足りない。
クールで気ままなネコ、人情肌ですぐに拳が出るイヌ、どちらもイケメンで学校中の有名人、というキャラ設定が安直で、ネコが教室に来ると『クラスの女子が旨の前で祈るように手を組み、瞳を輝かせ、彼を見つめているのがわかる。』という描写もわざとらしい感じがする。

番外編として挿入されている、イヌの小学校時代の物語「子イヌ」は、そのストレートさが、小学生くらいだと、丁度良いさわやかさになっていて、微笑ましい感じでよかった。

天使を探す2話目に出てくる、このやりとりは、漫画っぽいけど、ぴりりとスパイスが効いてて好きだ。
『「天使って存在するの?」
「天使が存在しないって誰に教えられた?」ネコが不機嫌そうに眉根を寄せる。「その質問は世界を退屈にする。気をつけて」
(中略)彼が言うように否定的な質問は世の中を狭くし、つまらなくする。』
須賀敦子の書評で興味を持って、購入。須賀敦子はこの本の訳も手掛けている。

家族が長い間につむいだ、どうでもいい出来事や繰り返した会話、口癖。
叔父さん、おばあさん、「なんというロバだ!」と家族をたびたび「ロバ」呼ばわりする父親の口癖、明るい母親のとりとめのない会話。

そんなものは、その家族以外には何の意味もない、興味を持てるはずがないのだが、でもそれをあまりにみずみずしく繰り返しインプットされると、何となくその一員になったかのように、それらの出来事や会話が身近になり愛着を持ってしまう。
このみずみずしさは、名訳によるところも大きい。

戦争やユダヤ人の迫害の時代を迎えるが、その時代にも書き方は変わらない。
筆は、ちっともドラマチックにならないし、戦争に対する悲しさや憤りも、表面的には全く書かれない。
流刑になったり逮捕されたり悲惨な事もあり、恐ろしい目にあっているのに、家族の会話は、同じように続く。
それが、静かに感動をよぶ。それは、あらすじではなく、会話の一つ一つを丁寧に読んでいかないと、わいてこない感動。

また、こんなに普通の毎日で、でも戦争はこの時起きてたんだ、普通の毎日の続きにいともたやすく戦争は起こるんだ、という怖さを感じた。



冒頭にあるこのメッセージを読んでからこの小説を読むと、なおいっそう、一つ一つの他愛もないやりとりが、いとおしく感じられる。

『私たちは五人兄弟である。いまはそれぞれが離れたところに住んでいる。なかには外国にいるものもある。たがいに文通することもほとんどない。たまに会っても、相手の話をゆっくり聞くこともなく無関心でさえある。けれど、あることばをひとつ、それだけ言えばすべて事足りる。ことばひとつ、言いまわしのひとつで充分なのである。あの遠い昔のことば、何度も何度も口にした、あの子供のころのことばで、すべてがもと通りになるのだ。「われわれはベルガモまでピクニックに来たわけではなァい」あるいは「硫酸のにおいはなんのにおい?」というだけで、私たちの昔のつながりが、これらのことばや言いまわしに付着した私たちの幼年時代や青春が、たちまちよみがえる。(中略)それは(中略)いまはもうどこにも存在しないあるいのちの共同体の証しなのである。これらの言いまわしは、私たちの家族のまとまりの大切な土台であり、私たちが生きているかぎり、地球上のあちこちでたえずよみがえり、新しい生を享けて生き続けるだろう。それがどこのどういう場所であろうと、だれかが「敬愛するリップマンさん」といえば、私たちの耳には、あの父のいら立った声がひびきわたるだろう。「その話ならもうたくさんだ。何度聞いたかわからん」』
きちんとした緻密で美しい文体で、侘びたのから豪華絢爛なのまで、さまざまな茶席が語られるのは、読みごたえがある。

今から切腹せんとする利休のモノローグから始まり、過去に遡り、利休の妻や弟子、秀吉らの語りで、利休という人や秀吉との関係がじわじわと示されてゆく。
その展開具合も丁度よく、もっと利休を知りたくなり、先に進みたい気持ちを常に維持して読める。

が、ラストにやっと明かされる、利休が美にこだわる根源のエピソードが、何だか想像通りというか、浅くて陳腐で納得がいかない。
そこが肌に合わなくて、手元に置いて何度も読みたいほどには愛着がわかない。

最近お気に入りの漫画「へうげもの」と、登場人物やエピソードが重なっていて、個人的には「へうげものでああ書かれてた場面か」と絵が浮かびながら読めたのは、とても楽しかった。
アリと言えば世間では働き者として知られているが・・・から始まり、その実、ある瞬間を切り取ると、アリの巣の中では7割のアリが「何もしていない」事が観察された。継続的に観察しても、ずっと働かないアリもいる、という導入部分は、興味をそそられる。

全員が一斉に働いて一斉に疲労するより、余力を残しておいた方がよいという群れとしてのメリットや、個体によって刺激に対する反応の違いがあるために、一定の刺激があってもそれで働くアリ・働かないアリが存在するという仕組みなどを、わかりやすく紹介してくれる。

人間のように、どう社会を作ったらよいのか考える個体がいるわけでもないのに、うまく集団での社会が成り立つ虫の世界は、なかなか面白い。
それをわかりやすく解説していて読みやすいが、ページをめくるのがもどかしいほどのドキドキ感はなかった。同じ科学本なら、福井伸一の本の方がドラマチックで面白い、と思った。

エピローグにある、大学の学生が、著者の説明にいったん納得したのに、後から「先生の言ったことは教科書に載っていません」と言ってきたのに対して、

「君は自分の頭で納得したことより、教科書に書いてあるかどうかを正しいかどうかの基準にするのか?科学者は、正しいと思ったことは世界中のすべての人が"それは違う"と言ったとしても"こういう理由であなた方のほうが間違っている"と言わなければならない存在なのに?」

と怒り、学者の仕事は、まだ誰も知らない現象やその説明理論を見つけることだ、という主張や、

「生物の進化や生態の研究には、まだまだ何が出てくるかわからない驚きが残っていると私は思いますし、驚きがないのなら、そんな研究はもうやめた方がましだと思います。人生もそうかもしれませんが、いつも永遠の夏じゃないからこそ、短期的な損得じゃない幸せがあると思うからこそ、面倒臭い人生を生きる価値がある、とは思いませんか?」

という結びは素敵だ。
男と女に分かれる発生の仕組みについて、理科的でなく、ドラマチックな文章で語っていて、単にその仕組みだけでなく、その仕組みを解き明かそうと必死な研究者たちの歴史やドラマも見える書き方はよい。
が、語ろうとする内容が「男と女の分化の仕組み」についてのみで、これを一生懸命引き延ばして長くしている感があり、「生物と無生物のあいだ」に比べると、薄っぺらな印象。

内容的にはあまり関係ないが、プロローグにある、とある学会でのエピソードはとても素敵だ、と思った。

世界中から多数の研究者が集まる国際学会の基調講演を行ったスイスの重鎮学者が、開口一番、こう言った。

「科学の世界の公用語は、皆さん、英語であると当然のようにお考えになっていると思いますが、実は違います」

その学者はドイツ系スイス人で、英語もかなりドイツなまり、まさかドイツ語が公用語だなんて言わないだろうな、と皆が何を言うんだ?と次の言葉を待っていると、

「科学の世界の公用語は、へたな英語です。どうかこの会期中、あらゆる人が進んで議論に参加されることを望みます」

何とその場にふさわしい、素敵なスピーチ。
会場からは大きな笑いと拍手が起こり、このスピーチのおかげなのか、この学会では、どのセッションでもアジアから参加した、非英語民の活発な議論が目立った、とか。


空間的にも時間的にも、人は全てを眺める事はできない、故に部分を切り取り観察して世界を理解しようとするが本当は全てのモノは一部分だけで完結するものはない、というテーマが軸。

これにからめて、科学界のドラマチックなスキャンダルや様々なエピソードを紹介され、飽きないし、テーマもぶれず構成もよい。が、そもそもこのテーマにあまり魅力を感じないので、読んでる間は面白いが、すぐ忘れてしまいそう。「生物と無生物のあいだ」の方がテーマ的に面白かった。

『この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。

そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。
物質・エネルギー・情報を、やりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。』

という美しい結びは、さすが。

そうして、時間的な断面や空間的な部分を見ても、それは真実の姿ではないし、かといって全てを眺めることはできないとして、しかし、部分を観察してそれを関連付け・不足を補い、鳥瞰することを繰り返すことが、「世界に対する」という事であるとし、世界のリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない、というメッセージもなかなかよかった。
須賀敦子が著書の中で絶賛していたので、読んでみようかと思ったが、かなり読みづらくて、なかなか終わらなかった。

1665年にロンドンにペストが蔓延し、市民の1/6が亡くなった大惨事を、体験者から話を聞き、当時の「死亡週報」などを念入りに調べ、小説化したもの。
著者は、「ロビンソン・クルーソー」のデフォーだが、まったく趣が異なっており、小説というよりは、調べた事実を述べたドキュメンタリー様のもの。

当時はまだペスト菌の存在もわからず、人々が死の恐怖におびえ、騒いでいる様子を淡々と描いた名著らしいが、どうも言い回しがくどい感じがして、私はあまりハマれなかった。

体に腫脹ができた男が、医者にそれをつぶそうとかけられた腐食剤で焼けただれ、痛みのあまりなのか、ひょうきんな格好で踊ったり歌ったりしながら走ってゆくシーンがあるのだが、その前にはいちいち、

「この男の姿ほど、(略)われわれの魂に深刻な印象を与えたものはほかにないといってよかった。いや、この男ほど、われわれに痛烈無残な衝撃を与えたものはほかにはないといっても過言ではなかった。」

というような表現が続いて、それが毎回同じような内容なので、ちょっと飽きてしまった。

また、
「だが、これについては然るべき箇所において話すつもりである」
「この問題はまたあとで取り上げるつもりである」
「このことについてはやがて話をしたいと思う」
という描写が多く、それがどこで出てきたのかわからなかったので、話が途中で切られた感じがして、集中できなかった。


図体ばかりデカくて何をやっても不器用、百姓たちからも「でくのぼう」転じて「のぼう様」と呼ばれた成田長親が、降伏が内定していた戦で戦う事を決め、石田三成率いる2万の攻め方に、わずか500の兵で城を守る戦記モノ。

城方の武将たちはいずれもアクが強くヒト癖もフタ癖もある厄介な者たちだらけだが、長親は、何もできない無能な将であるが故に、彼らをまとめる事ができた。

城下の百姓たちも、戦に徴収されるのを命懸けで嫌がり、城からの使いに抵抗しようとするが、開戦を決めたのがのぼう様と知るや、爆笑、「じゃあしかたない助けてやるか」と、進んで城に籠る。

長親は最後まで自分の心中を語らず、ダメ武将の態だが、それ故に城がまとまったり、ここ一番のピンチでは一瞬だけ不敵な顔を見せるのが、かっこいい。
幼なじみの家老や敵将の目を通して、読者は、時折、非凡な将器を長親に感じる。それが醍醐味。

大規模な戦がクライマックスにあり、起承転結はキレイで、話もキャラクターもわかりやすい。が、キレイ過ぎてやや平坦で物足りない印象も。小説というより映画の脚本ぽい印象。
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