日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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ちょっと読みやすい軽めの本を、と集英社文庫に手を伸ばした。
「とにかく・・・・・・すごい本です。そうとしか言えません。」
というオビは、ちょっと大袈裟だが。しかし。面白かった事は面白かった。
「世にも奇妙な物語」のような、不条理で不思議な、ドラマっぽい7つの短編たち。

モノによっては、ブラックだったり、心温まるような、だったり。
奇抜な発想は共通して、ある。

例えば「二階扉をつけてください」では、出産で妻が実家に帰ったため一人暮らしの旦那が、「二階扉をつけるように」という回覧板を無視したため、近所のうるさいオバちゃんに怒鳴り込まれ、「二階扉」って何なんだろう、、と思いつつも言われるがままに業者に依頼して取り付ける話。
結局二階扉の正体は明らかにはされないのだが、なんとなくわかってくるその使い道。
音だけでわかるブラックなオチ・・・・。

不条理でブラックだなーと思って読み進めると、不条理な不思議バナシは他もそうだが、ブラックなのは最初のコレだけだった。


表題の「バスジャック」は、
『今、「バスジャック」がブームである。』
というワケのわからない一文から始まる。
あまりのブームに、バスジャック規正法もあるし、ルールも定型もあり、観客もバスジャックを見る目が肥えてくるし、バスジャックを期待して高速バスの人気があがっている、そんな世になっている。
かくいう主人公の乗っているバスも、バスジャックが発生し、乗客は期待のまなざしでバスジャック犯を見つめる。
乗客とバスジャック犯のやりとりがテンポよく、このテンポが止まる事なく一気にラストへ向かい、勢いのあるまま快い切れで終わる。


「送りの夏」は、泣けた。

12歳の麻美は、小学校の夏休みに、失踪した母を捜して海辺の町へやってくる。
母は、その町に居た。
「直樹さん」と呼ぶ男性と共に。しかし、男性は車椅子にのり、微笑のまま動かない。
その建物には、動かないマネキンのような大切な人と暮らす何組かの家族が暮らしている。
母は割とあっさり麻美を迎え入れ、動かない人々が何者かと思いつつも、麻美もそこでしばらく暮らすことに。

この物語は、何か、夏の海辺でないと、ダメだな。
夏の海の昼と夜がよく似合う。
私の好きな夏の描写がたくさんあってそれだけでも楽しい。

強い日差し、陽炎、周囲の山々からの蝉の声、潮の香りと山の匂いと草いきれを含んだ熱い夏の大気。
丸みを帯びた石が広がる磯浜で、真っ白な石を拾って、日の当たる側とそうでない側を交互に頬にあてて暑さと冷たさを交互に味わうとか、海にそれを投げて「とぼん」と間の抜けた音で沈むとか、冷たい麦茶とか。
満月がさえぎる雲もなくあまたを照らし、水面が光を千々に切り分けてるとか。

物語のテーマは、生と死、続くと思っていた愛しい人との日常が終わった時の受け入れ方、という感じなのだが、それに紐づいて描かれた、夫婦や親子の在り方というものが面白かった。

この先はちょっとネタバレあり。

愛し合って結婚した夫婦が、しかし、その愛がずっと変わらず続くわけではないと思う麻美。
「好きになって、結婚して、暮らしていくって、どんな感じなのかなあ」
という疑問に、ある人は、
「今日の次に明日が来るように」「続けていくものではなくて、続いていくものなんだよ」
と言い、60年連れ添った老人は、60年はあっという間でむしろ短いと言い、
「長くなればなるほど、一緒にいた時間なんて、あっという間に思えてくるもの」

父親は、家族の元を去り、他の男と一緒にいる母親を見ても動じない。
「『信じてる』ってコトバを使って逆に相手を束縛したり、夫婦っていうコトバで互いのやるべきことを見失うのはやめよう」
と母親と結婚するときに誓ったからだ。
「お父さんとお母さんは互いに夫婦だ。だけどね、互いのすべてをわかり合うことはできないし、わかる必要もないんじゃないかって(略)思ってる。わからないままでも、わからない部分を含めてお母さんのことを好きだし、守っていきたいし、一緒にいたいんだよ」
この思想は、立派すぎて、そりゃそうだ・・・、としか言えないが、真理だなーと思う。

「信じるっていうのは、お父さんからの一方的な気持ちの押し付けだ。こうあってほしいっていう身勝手なものだね。信頼するっていうのはそれとは違う。互いの存在や、考えていること、やろうとしていることを認め合える関係のことなんだよ。お父さんは、お母さんとそんな関係でいたいと思う」
信じると信頼するの違いは、これは単なるコトバの定義でしかないけれど、誰かをずっと一緒に長くいたかったら、やっぱり存在まるごと認め、ここでいう「信頼する」気持ちにならないといけないんだろう。

この父親の言葉を、娘の麻美は、わからないとしながらも、最後に母親にこう言っているって事は、根本的には理解し、母親を信頼したことになるのでは。

「わかんないけど、お母さんのやろうとしてることが、今しかできない、お母さんにしかできないことだったら、がんばって」


他に、「しあわせな光」「二人の記憶」「雨降る夜に」「動物園」を収録。

「動物園」もちょっと奇抜な発想が面白かった。
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紀州。
あまりなじみの無い土地である。
一度だけ、伊勢神宮にお参りし、志摩半島で鮑のステーキを食べた。そのくらいの記憶しかない。

そこを旅したルポルタージュ作品ならば、紀州の魅力たっぷりに描かれているのでは。次に旅するときの楽しみになるかもしれない、と手にとってみたらば。
全然そういうものではなかった。

紀州は確かに自然豊かで美しいらしい。
けれど、この本ではそういう風に自然を描写しない。

著者は、自身が被差別部落出身で、著者の一連の小説に出てくる「路地」と呼ばれる空間は、部落を意味しているらしい。

その著者が、ジリジリと、紀伊半島の町を、被差別部落を中心に一つ一つ巡り、見て、聞いて、感じ、地霊と言葉を交わすように、つづるルポルタージュである。
風光明媚なものを期待して読んだ私には、なかなか衝撃的だった。
全体的に妙な緊張感がただよっていて、息をつめて読んでしまう。

はっきり言って、さっぱり意味がわからないところもあるのだが、そもそもこの本は、意味をハッキリさせようとして書かれたものではないので、わからなくてもいい、と後半になって思った。そして魅力的だと思った。
で、イチから読み直す。久しぶりの即再読。
ただじっくり読めばいい。決してあせらず、味わえばいい。考えなくて、分析しなくていいのだ。

わからない単語がいくつかあって、その意味は調べるが、文章の意味がハッキリとわからないところは、そのままにして先へ進む。ただその文章の雰囲気だけを感じて。

差別というものを、簡単に理解したり、分析したり、理由づけたり、抽象化したり、そういう事は著者は求めていないらしい。ただひたすら、場所を訪れ、そこで感じたものを感じたままに述べ、蓄積しつづける。そういう旅が続く。

意味がわからなくなる文章とは、例えば紀伊大島について、
『半島にくっつくようにある島である。半島が半島的状況を示すなら、島は島的状況を示す。そう自分で造語して、その造語の意味を解くために苦心する。』
というような部分。
自分で造語して、その意味を解くために苦心するって何??その意味って結局何??となると、止まってしまって進めない。

著者の追う「差別」なるものについての記述。こういう思いなのだ、とちょっとはここからわかる気がする。
『私の追っているものの一つである、"差別"なるもの、それは何なのだろうかと改めて思った。差別は現存し、差別の構造の粘膜は在る。ただ"差別"とはあまりに言葉が簡単すぎる。"差別"をさらに差別、被差別の回路にかけて分光する必要がある。差異であり、美であり、暴力でありエロチシズムである事を、ひとまず、"差別"と括ってしまっているのではないか。』

若かりし伊丹十三監督の、ヨーロッパ暮らしを綴ったエッセイ。
硬質なワガママというかこだわりが、キラキラと粋にきらめいて面白い。

読み始めは、何かちょっとキザで退屈だなー、と思っていたが、しだいに「フムフム」と真剣になり、キザで潔癖なこだわりが、快感になってくる。

あとがきに
「ヨーロッパ諸国と日本では風俗習慣はもとより「常識」そのものにさまざまな食い違いがある。わたくしは、これをできるだけ事実に即して書きたかった。」とあるように、著者の外国での暮らしでふれた実体験が、話題の根っこにある。
そこに思想とこだわりがのっかって、演技、映画、オシャレ、語学、スポーツカー、音楽、酒、料理などについて、彼のあらゆる美学が語られる。

たとえば、スパゲティの正しい食べ方。
スパゲティは、音を立てて食べるのは絶対のタブー。
音を立てないようにするには、フォークに適度な量の麺を巻き取る事が大切、と、正しい巻き取り方について述べる。
その述は、ヘミングウェイの一節に始まり、どこかユーモラスで厳しく、巻き取り方が緻密に伝授され、さいごはヘミングウェイの一節でまた終わる。

たとえば、カクテルについて。
「カクテルというものは、本当は愉しいものなのにねえ。」
晩餐前、夜早い時間に飲むものとして最適という。
ブランデイは食後の飲み物だし、ビールは満腹になってしまうし、ステーキの前に日本酒でもなかろうし、ウィスキーでもよいが女性同伴の場合はカクテルの方が良いと述べる。
そして、

「わたくしは、彼女の、その日の気分や、好み、アルコール許容度、そして服装の色などをおもんぱかって、これ以外なし、というカクテルをピタリと注文する悦びは、男の愉しみとしてかなりのものと考えるのだが、いかがなものであろうか。」

ステキだ。
こんな男性と飲みに行って、カクテルをピタリと選んでほしい。

以下、カクテルに関する覚え書きと、おつまにの記述が続き、ここで私は耐えられなくなって本を閉じる。

いかん。
猛烈に。
美味しいカクテルが飲みたい・・・。


マティーニ

(後日談)
結局その日は夜も遅かったため自宅でワインで我慢して、美味しいカクテルを求めて、しばらくさまよう事になる。
週末、やっと満喫。マティーニはカクテルの王様だ。
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