日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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クリスマスといえば、昨今は、男性が女性に高額なプレゼントをしたりディナーをご馳走する日になっているが、正統派クリスマスの祝い方を教えてくれるのが、この本。

作者のディケンズは、ヴィクトリア女王時代のイギリスの文豪。
当時、イギリスは、産業革命で国が発達して、同時に貧富の差も激しかったころである。

主人公のスクルージは、金持ちだがケチで冷酷で誰も愛さない冷たい老人だった。
ある日、仕事の同僚だった老人の亡霊があらわれ、そのままの生き方では悲惨な末路を迎えることを教え、老人の予言とおり、その翌日から3人の幽霊が次々とスクルージの前にあらわれ、その出会いにより、スクルージは心を入れ替え、「クリスマスの祝い方を最も知っている人」と呼ばれるようになる。というおとぎ話のようなストーリー。
スクルージが改心するくだりとか、あまりあっさり改心して、いまいち納得感がないあたりがおとぎ話っぽいが、短くてささっと読めて心があたたまるクリスマスに読むのにぴったりな1冊。

ディケンズの書く「クリスマスの祝い方」とは、キリスト教的な博愛精神で、お互いがお互いを助け、社会をよりよいものとすること。

作中のスクルージの甥の言葉を借りると

「とにかくクリスマスはめでたいと思うんですよ。親切な気持になって人を赦してやり、情ぶかくなる楽しい時節ですよ。男も女もみんな隔てなく心を打明け合って、自分らより目下の者たちを見てもお互いみんなが同じ墓場への旅の道づれだと思って、行先のちがう赤の他人だとは思わないなんて時は、一年の長い暦をめくって行く間にまったくクリスマスの時だけだと思いますよ。(略)クリスマスで金貨や銀貨の一枚だって儲けたわけじゃありませんが、やっぱり僕のためにはクリスマスは功徳があったと思いますし、これから後も功徳はあると思いますね。そこで僕は神様のおめぐみがクリスマスの上に絶えないようにと言いますよ!」

この祝い方、とても素敵だなあ、と思う。

スクルージが幽霊と共に目にする、貧しいけれど愛にあふれた家庭のクリスマスのにぎやかな過ごし方がとても微笑ましい。鵞鳥とかプディングとか、暖炉の火とか、ヴィクトリア時代のクリスマスの雰囲気が感じられて楽しい。
読むと、クリスマスを楽しく祝いたくなってくる。

と、言いつつ、今日は職場の女子たちで飲んだくれて「さびしい飲み会だね」などと言われてたりするのだが・・・。

昔の外国モノなので、翻訳のうまさで読みやすさがかなり変わると思う。
私が読んだ新潮文庫のは、あまり読みやすい文体ではなかった。昔の外国モノ、という感じはすごくあってその雰囲気は楽しめたけれど。

他にも違う訳者で何冊か出ているようだ。

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最終戦争で文明が衰退し、巨大キャタピラで荒地を移動する都市たちが互いに喰らいあう世界を描く未来SFファンタジー2作目。
今回も個性あふれる移動都市たちが登場し、いろどり豊か。

前作から2年後。
優しくハンサムでお人よしのトム、顔に恐ろしい傷をもつリアリストな少女ヘスター。
前作でトムの出身地、ロンドンが崩壊し、そこを後にして飛行船ジェニー・ハニヴァー号で旅をする2人は、北の氷原を移動する都市アンカレジに不時着する。
そこは、「冬の宮殿」に住む若干16歳の「辺境伯」と呼ばれる美少女が治める、由緒ある都市。
だが、疫病の流行で死亡・脱出する人が相次ぎ、人口が激減。閑散としたつめたい静かな街になっている。

都市への安住と、美しい辺境伯に惹かれるトム。
トムとの心のみぞを感じ、それを埋めようと必死のあまり、思いつめてアンカレジを飛び出すヘスター。

一方、移動都市文明に反発する反移動都市連盟は、より過激な一派と保守派に分裂、過激派は恐ろしい古代兵器を再びよみがえらせ、移動都市の殲滅をたくらむ。

「ロストボーイ」と呼ぶ子供達とスパイメカを多数あやつり、各地の情報を収集する謎の人物、アンクル。

獰猛なほかの移動都市に狙われながら、アンカレジは辺境伯の断により、ある場所へ向かうことを決意。

これらの出来事に、トムとヘスターが関わり、巻き込まれ、くるくるとすごい密度で息つく間もなく話が展開してゆく。
前作にも増してハイスピードでハイテンションな展開。多彩な登場人物。
アニメのような派手な場面が続いて、楽しい。

次作は、この本から16年後の物語らしい。
また日本では出てないようで、残念。早く先が読みたい。
ストーリー:◎
この本は、読む前に、「ディックの本棚」というブログで、「たしかにすごい職人芸だけどあまり・・・」という書評を見てしまっていたので、その影響を受けて、「うーん、たしかに技はあるけど心がないような・・・?」という気持ちで読んでしまった。

伊坂幸太郎にとって、この作品は、技の練習なのではないだろうか?

登場人物たちの折り重なり、微妙に関わり、もつれ、わずかな奇妙な接点が次第に大きくなって、あるとき、全貌がぱっと開ける。その展開は、実に見事。
こういう技術は、この他の作品にも生かされていて、そしてこの他の作品は、心も入っていて、面白いものがたくさんある。

それにしても。よく、これだけたくさんの人物を同時に動かせるなあ、と感心する。
AとBは仙台へ同行し、その共通の知人Cは昔の同級生Dと、久々の再会を果たす。DとEはマンションで偶然出会い、Cの妻Fは、Gとハカリゴトをしていて、その途中にEと会う・・・とか、こんな感じで、場所をずらし、時間を前後させ、ちょっとずつちょっとずつ登場人物たちが重なるようにすすんでゆき、次々と謎が出てくるのがちゃんと別の場所で解明されて・・・、見事である。

また、他の作品「オーデュボンの祈り」の主人公のうわさが出てきたり、「チルドレン」でおきる事件が作中でニュースとして出てきたり、というリンクが見られる。
この作者の頭には、広大な世界が存在しているのではないだろうか?
その頭の中の世界には、いろんな人がいていろんな出来事が起こっていて、伊坂幸太郎はそれらを神のような視点で眺めていて、伊坂小説は、その世界の出来事の一部を切り取って作っているのではないだろうか。と思わず思ってしまうような。
キャラ:◎

噺家・柳家小三治の、落語の前の小噺(まくら)をテープから起こして文章にした本。前作「ま・く・ら」に続く2冊目である。前作よりも本音が語られているというか、人柄や考えている事があらわになる小噺が多くて面白かった。

全体的に、オカシイ。しかも、味がある。

解説で小沢昭一が語る下記のようなホメ言葉が、とてもよくこの本をあらわしている。
いずれの小噺も、柳家小三治の身辺におこった実話であるが、

『だいたい実な出来事は、毎日のようにわれわれの身の周りで進んでいるわけで、ありきたりの実にも、トッピな実にも、しょっちゅう囲まれて、あたしら暮らしているわけだけれども、そういう日常の雑多な実のなかから、あなたは「噺」をつかまえてくる。そのつかまえ方、つくりあげ方が、まぁ、ニクイほどうまい。』
のである。

その理由として、柳家小三治の物事を見つめる視点が、ユニークだからという点を挙げて、ユニークさについてこう語る。

『そのユニークさは、あなたが、常識にとらわれない独自のマナコで物事をニラんでいるからでしょう。しかもその独自のマナコは、なにも物事をハスッカイに見てやろうなんて魂胆ではなく、あなたにとっては、実は、ナイーブな目なんですなぁ。素直な自我がニランでるんです。そのユニークな自我を持っている人の語る言葉だからオモシロイのですよ』

小三治自身が、本の中で言っている。
落語を聴いた人が落語を面白いと思ったときは、その陰にいる噺家を面白いと思っている、と。
ベートーベンの「月光」がいいと言うとき、それは音楽自体に価値があるのではなく、ベートーベンという人間の力に感動するのだ、と。
どんな職業の人も、根本にあるのは、その人自身、その人間そのもの。
そう思うからこそ、柳家小三治は、いろんな事に首をつっこんだり、調べたり、考えたり、そうして日々、人間として面白さを鍛え上げているのかしら。

その旺盛な好奇心、「面白い」を追求する根本にあるのは
『人間が楽しめるものみんな楽しんで、それから死にたいですねあたしは。楽しんでみなきゃわかりませんよ。』
という心持ちなのだろう。

子供の教育について。とことん面白いものを追求した人には、こう言える。
『何やったって必ずいつかはいいものを求めるようになるんです。』
だから、親がワルいと思うモノに子供が興味をもってしまったとしても
『興味が向いたらどんどんやらせりゃいいんです。早く飽きさせたらいいの。いいものは飽きないですよ。』

そしていろんな事をやって、いいものが残り、そしていろんな事をやったという経験が、また、面白い人間をつくるのだろう。
はじめからいいものばかり厳選されて与えられるよりも、いろんな経験の中から、いいものが残る方が面白いと思う。

この本は本当に面白くて、一気に読んでしまったのだが、あとがきに
『先を急がないで下さい。例え黙読でも、私がおしゃべりしてるのと同じ速度で読んでくれませんか。』
とあるのを読んで、ナルホドそうか、と、もう一度ゆっくりペースで読み直し、その方が、より楽しめた。面白くても、わざとゆったりと読むのをオススメする。
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