日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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文:○

有名だけど読んだことない本を読んでみよう!キャンペーンを、たまにやってみる。
古典と言われる、長く残っている本はやはり偉大だ、と敬意を表す。

当書は、ゲーテが晩年に、「もし生涯に『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」と語ったという、青春小説だ。

●若く教養深く、才気あふれるウェルテル青年が、ドイツの片田舎の町にやってきて、そこで出会った女性ロッテに恋をする。
美しく、やさしく母性的で聡明で可憐なロッテ。彼女も、ウェルテルと気が合い、感性が合い、仲良くなるが、しかし彼女には、婚約者がいた。
誠実で立派な婚約者はとても寛容で、ゲーテのロッテへの慕情を知っても、嫉妬や敵意をもたず、両者を信頼し、ウェルテルも彼を尊敬し、3人で楽しく、夢のような夏を過ごす。

が、清らかな愛であったハズのウェルテルの想いは、次第に抑えきれないほど増し、狂おしいまでになり、ウェルテルを破滅へと導く。

恋の喜び、痛み、恋する相手がいる事で感じる歓喜・至福と、相手が手に入らない身を引き裂かれるような悲哀。自然に対するアコガレ、畏れ。自分の才能に対するプライド、自信、それを分かってくれない上司への反発。
世界に対する倦怠と期待。

誰もが覚えのある、青春時代に抱いていた「気持ち」がたっぷり激しく書いてある本。

人間の内面の感情をあらわに書く、ということが初めて行われた小説だったらしく、当時、ヨーロッパでは一大センセーションとなり、この小説のせいで、離婚と自殺が流行ったほど。すげー。

こんなに鮮明に書けるのも当然で、このハナシ、ゲーテの体験もかなり混ざっている。

立派な婚約者のいる女性に恋をし、婚約者ともども3人で仲良くなるが、次第に苦しくなった、というのはゲーテ自身のハナシ。
それに、やはり人妻に恋してむくわれず自殺した友人の話と、また別の人妻に恋して苦しんだゲーテの体験が混ざって、何年も熟成されたのち、小説化されたようだ。


・2人で同じ景色を見て、同じ詩を思い浮かべた時のヨロコビとか。
・夜どおしの舞踏会明けの朝にまわりがうたた寝している中、
「あなたもおやすみになりませんか?わたくしにご遠慮はいりませんから」
「そのお目があいているあいだは」
とか!
・『ああ、全身の血脈がおののく。ふとこの指があのひとの指にふれるとき、この足が食卓の下であのひとの足に出会うとき!思わず私は火から身をひくが、奇しき力がふたたび前へと牽く。五官はくるめく。』
とか!!

恋って、恋がはじまった時って、こうだよなーと、恋の始めにいない時には決してわからないこの激しさが、なつかしやー。


私が読んだのは、岩波文庫版だが、新潮文庫からも出ているようだ。他の人のブログを見ると、新潮文庫の方は、訳が割と現代語に近い。岩波文庫のは、古めかしい言葉遣いだけど、雰囲気はこちらの方があると思う。


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キャラ:◎ ストーリー:◎

この本は、私が学生時代に読んだ、初めての宮部みゆき作品。母上が図書館から借りてきたのを横からつまみ読みしたら、見事にハマった。それは、衝撃の出会いだった。

こんな面白いストーリーを考えられる人が世の中にはいるのか!という衝撃。そのくらい話の進め方が見事。展開が早く、でもわかりやすく、そしてドラマチック。割と薄い本だし、さっと読めるけど、すごく面白い。一流のエンターテイメントと言える。

主人公が中学生男子で、その級友・島崎が中学生とは思えないくらい賢くて冷静なのがまた私好み。

●結婚15年目の両親と、中1の僕。至って平和な(と思われていた)家庭に訪れる、突然の嵐。
それは見知らぬ弁護士がもたらした、遺産相続さわぎ(正確には遺贈というらしい)。
母親が娘時代に、とある出来事で関わった男性が、遺言で母親に5億円の財産を遺すという。
嵐の初めは外側から。マスコミの取材やら、親戚・知人からの干渉、不特定多数のおかした人たちからの脅迫電話。
そして、実はほころびかけていた両親の仲が一気に悪化。
とうとう、父親は家出してしまう。
僕と島崎は、嵐の発端となった、母親と男性のつながりを調べはじめ・・・そしてさらにさらに・・・・!!

これは、ある「賭け」の物語だ。
誰が、どうして、何のために、何を賭けていたのか?
実は最後にやっとわかる。最後に明かされて、すごく納得して、そしてホッとする。
「ああ。そうだったのか」と気持ちよく読み終えられる。

2人の少年が、水族館で出会い、「マダム・水族館(アクアリウム)」と名付ける謎の婦人も、ドラマチックさに色をそえる。婦人との出会いのシーン、すごく映像的で心に残る。

『いくつぐらいだろう・・・・・・四十五歳ぐらいにはなっているかもしれない。でも、とっても綺麗な女性だった。ほっそりと優美で、シンプルな黒色のスーツがよく似合う。僕らに向かってにっこりほほえんでいるくちびるだけが、淡い紅色だった。
(略)
視線をあわせ、そろって言葉を探している僕たちの頭に、代わる代わる、その人はそっと手を置いた。そして言った。「じゃ、またね。坊やたち。きっとまた、ここで会えることもあるわね」
彼女が消えてしまったあとも、しばらくのあいだ、香水の薫りが残っていた。
島崎が、感嘆の面持ちでぽつりと言った。
「マダム・水族館(アクアリウム)だ」
(またここで会えるわね)
たしかに、その約束は果たされることになる。だけど、それはまだまだ、先のお話。』


文:◎

初めて読んだ川端康成は、「伊豆の踊り子」。
このときは、ふーん何だか退屈だなーで終わってしまい、2作目、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という有名な書き出しだけは知っていた「雪国」。
ノーベル賞作家の純文学を読んどいてもいいかーと退屈を覚悟で読み始めると、島村という主人公の男が
『結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている』
と来る。ん?それはどういう・・もしかして・・と思ううち
『この指だけは女の触感で今も濡れていて、・・・・』
と続く。え、こんな話なの?と意外さにおどろき、いろいろ他の作品も読んでいくうちに、その美しい文章にはまった。

女性を書かせたら、この著者は天下一品。
この本には、タイプの違う3人の女性が出てきて、それぞれ主人公・菊治と関係をもつ。ストーリーを楽しむというより、3人の女性の美を味わう作品。


●ひたすら可憐で清楚な稲村令嬢。この令嬢がやがて新妻になったときの初々しい美しさといったらない。下は茶室での登場シーン。
『若葉の影が令嬢のうしろの障子にうつって、花やかな振袖の肩や袂に、やわらかい反射があるように思える。髪も光っているようだ。
茶室としては無論明る過ぎるのだが、それが令嬢の若さを輝かさせた。娘らしい赤い袱紗も、甘い感じではなく、みずみずしい感じだった。令嬢の手が赤い花を咲かせているようだった。』

●妖しい魅力の太田夫人。菊治とからむシーンは、具体的な生々しいコトバじゃないのになんてエロいんだ。
『菊治ははじめて女を知ったように思い、また男を知ったように思った。(略)女がこんなにしなやかに受身であって、ついて来ながら誘ってゆく受身であって、温かい匂いにむせぶような受身であるとは、菊治はこれまで知らなかった。』

●太田婦人の娘、文子。彼女は清らかでやわらかい感じ。
『文子が坐ったうしろの窓には、もみじが青かった。もみじの葉の濃くかさなった影が、文子の髪に落ちていた。
その文子の長い首から上が窓の明りのなかにあって、短い袖の着はじめらしい腕は青みのあるように白く見えた。そう太っていないのに肩は円い感じだが、腕も円みを持っていた。』


3人の女性の描写の合間に、志野焼の茶碗が登場する。
志野焼の茶碗が、どんなものだか知らないが、焼き物の描写が、女性をあらわすかのようにあやしくていい雰囲気。私の中では勝手にイメージができあがってしまっている。
『その志野の白い釉はほのかな赤みをおびている。しばらくながめているうちに、白の中から赤が浮んで来るようだ。』

解説で
『志野の茶碗の感触と幻想とから、作者は太田夫人という中年の女性を創り出したのだろう、と井伏鱒二氏が言ったことがある』
とあるが、茶碗から世にも妖しくて魅惑的な中年女性を連想してそれを見事に文章化してしまうところがすごい。

クセモノぞろいの常連が集う酒場。
「とっても不幸な幸運」という名の缶をあけると、幻が見えたり、曲が聞こえたりして、開けた人の何かが動き始める。

常連と店長が店の調度品を壊すようなケンカをしたり、深刻になりそうな事態も常連達の賭けのネタにされたり、どたばた&コミカルな人情バナシに謎ときミステリーをトッピングしたようなものにしようとする意図はわかるが、「しゃばけ」の世界ではぴったりきてたそれが、このハナシでは、どこかリアルでなくて面白くなかった。

謎ときのまどろこしさ、こじつけっぽさも気になってしまい、すんなり読めず。

人はナゼ生きるのか?ナゼ悲しいつらい目に遭うのだろうか?
と疑問に思う日々もある。小説のテーマにもなりがち。
この本は、それを実に美しく回答している。
「あの世」についても、とてもロマンチックで美しいものとして描いている。

●宝物のような子供時代を共に過ごした3人の優しくて勇敢な子供、智史、祐司、花梨。
大人になった智史は、子供の頃からの夢とおり、大好きな水草を扱うアクアプラントショップの店長に。おだやかな日々に、花梨、そして祐司との再会の物語が、生きていく意味を、あくまでやさしく美しい手触りで教えてくれる。

ちょっとキレイすぎるけど、たまにはこんなのも、まあいいか。

祐司は言う。悲しみは、人間に必要なことだと。
「これが不必要なことなら、そんな感情なくしてしまえばいいんだ。ぼくらをつくった誰かなら他愛もない操作さ。愛する者を失って立ち直れなくなるぐらいの悲しむのなんて、生物が生きてく上では大きなハンディだろ?(略)」
「なのに、こんな感情が与えられるっていうのは、きっとそこに何か意味があるからなんだよ」

て言っても、神様なんてホントにいるのかよ!て思うけれど、でもつらいとき、こういう言葉を読むとちょっと救われた気になるのも事実だ。

『すべてには意味があるし、おそらくぼくらはばらばらではなく、みんな繫がっている。誰もが誰かと誰かの触媒であり、世の中は様々な化学反応に満ちている。それがきっと生きているってことなんだと思う。』

こんな小説みたいに、大切な人と運命の再会を果たしたり、ドラマチックな出来事の触媒に、全ての人がなるわけではないだろうが、誰かしらに影響を与えて、誰もが生きている。それは確か。
だからどーした、とも思うけど、生きている事ただそれだけにでも何も意味がないわけではない事はうれしいと思う。そんな風に意味づけをしなくてはならない人間は幸せなのか不幸なのか。

このロマンチックな小説が示す「あの世」のやさしい在り方とは・・・?


余談だが、花梨と智史のテンポのよい会話がオシャレな映画みたいでかっこいい。
以下、あるシーン、会話部分だけ抜き出すと・・・

「いやいや」
「なにが、『いやいや』なの?」
「きみはじゅうぶん細いし、魅力的な胸をしていると思うよ」
「ねえ」「あなたは女性と手を繋いだだけで心臓をばたばたさせてしまうひとなのに、なんで、そうやって赤面してしまうような言葉を平気で言ってしまうわけ>」
「赤面?」「ぼくが?」
「違うわ。赤くなっているのは私よ」
「でも白いままだけど?」
「言葉のあやよ」「ハートは真っ赤に染まっているわ」

オビによると
『山本周五郎賞受賞作
なぜ、彼は殺さねばならなかったのか?
閉じられた空間「精神科病棟」で起きた
感動のドラマ・・・・・・』

精神病というと、気が狂っていて、残虐なことが平気でできたりする、というイメージが特に小説では強いけれど、この本では、ごく純粋で、気持ちも優しい患者たちが、どちらかというと、不器用に描かれている。
著者は、珍しいことに現役の精神科医らしい。患者さんへのあたたかいマナザシを感じる。

精神科病棟の患者の思いや行動をつづる、あたたかいマナザシを感じるエピソードがちりばめられた本。
ストーリーといえば、私はイマイチだった。
オビから期待したイメージは、殺人事件が起こり、それを中心に物語が進み、だんだんと解明されてゆく・・・というものだが、そういうハナシではない。
殺人が起こるのはほとんどラストで、犯人も動機も分かった上で起こるくらいなので、ミステリーとして期待しない方がよい。

32才の著者が離婚後はじめての一人暮らし。
結婚してしあわせでおなかがいっぱいという時でさえ、頭のどこかで一人になりたい、と思っていたというほど、やってみたかった一人暮らし。
念願かなって?の一人暮らし生活をつづった、1~12月、1年分の日記である。

万歩計で何歩歩いただとか、誰と飲みに行ったとか、映画を見たとか、体重が増減したとか・・・・それを他人が読んでどーする、というような軽い内容なのだが、ところどころにピカリと光る箇所があり、
「そうだよねー」
と共感できたり、
「この人はそんな風に考えるのか!」
と思わせられる。

●あまり話したくない人から、嫌な連絡があった日。
『こういうちょっとした嫌な気分は、本格的に落ち込む前に早めに治しておかないといけない。』
と、気分転換に出かける。
『ずっと一人でいると、自分の機嫌をとるのが上手くなる。
いつもいつも"何となく楽しいなあ"という気分でいたいのに、世の中を歩いていくと、たくさんの嫌なものが頭の上から降ってくるのだ。
でも、くだらないことに悩んでうじうじする時間が勿体ない。
体力を使ってでも、お金を使ってでも、私は私の"何となく楽しいなあ"を取り戻すことにしている。』

共感。

●『今の生活が快適かと尋ねられたら、私はとりあえずイエスと答えるだろう。
でも、自分で望んで一人でいるのに、一抹の虚しさと不安を感じる時がある。
誰か男の人と恋愛をして、それが実って結婚しても、そのぽっかり空いた部分が埋まることはないのだということはもう既に分かっている。
では仕事によってそれが解消されるかというとそうでもない。』

一人暮らし日記だから、全体的に、「孤独」というテーマがそこはかとなく漂っている。上記は、それがもっとも濃く出ている箇所かと。
一人暮らししていると、無性に寂しくて不安なときがある。私もあった。
でもそれを埋めるのは、恋愛や仕事ではない、ていう意見がオトナだ。
若い頃は、恋愛や仕事で埋められると思っていた。でも、一人暮らしだけでなく、家族と暮らしていても忙しくても、寂しくて不安な時はある。それは、誰が埋められるものでもないのかも。

絲山秋子の「海の仙人」という本の中にあった、
「誰かと一緒に寝るの、久しぶり。すっごい安心する」
「寝るときは一緒でも眠りにおちるときは独りだぞ。」
というのを思い出す。


●著者が持つ、自分がやりたいことは小説を書く事なんだという、確信がうらやましい。
『私の住みたい家はここ。私が掘りたい井戸はここ。私が磨きたい石はこれ。何をするにも迷ってばかりいたから、この自然な確信をとても嬉しく思う。』

こんな風に確信がもてることがあり、それを生業としていることが、ひどくうらやましい。
この表現がすごく印象に残った。

空飛ぶ馬」で紹介されていた「天守物語」を読んでみた。

美しく幽玄な雰囲気の、妖怪と人との物語が2編が入っている。戯曲形式で、舞台説明とセリフのみで綴られており、読みやすい。セリフが昔コトバなのは読みづらいけど、それが雰囲気があってまたよし。
波津彬子のマンガ化されたものがあり、それを先に読んでしまうと、このマンガが実に原作に忠実だし、よくできていただけに、そのイメージが頭についてしまって、本を読んでも新たな感動はなかった。

未読の人には、この本を読んでから、波津彬子がマンガで再現したものを読むのをオススメする。

●「夜叉ヶ池」は、竜神が封印された池のほとりで、日に3度つかないと竜神が解放されて洪水が起こってしまうという言い伝えの鐘を守る美しい夫婦のハナシ。
白雪という姫君の竜神と、その眷属・鯉七、蟹五郎、万年姥、侍女の椿・・・と名前からしてカラフルな妖怪たちが、文字だけなのに艶やかだ。

私はもう1編の「天守物語」の方が好きだ。

●姫路城の天守には、獅子の頭と、美しい妖怪の富姫とその侍女たちが住む。そこへ登ってきた若侍と姫君は、恋に落ちる。こちらも、姫君の侍女たちの名前が、桔梗、萩、葛、女郎花、撫子、と見るからに華やか。
泉鏡花の文章は、文字だけで色気がある。

この侍女たちが白露を餌に、秋草を釣ったり、蝶々が舞ったり、あくまで妖しく美しい天守の世界。一方、罪もない若侍が、身勝手な殿様のせいで追われる醜い人間の世界。
姫君と若侍が、その人間たちに追いつめられ、盲目になってしまい、共に死のうとするその時すら美しく
「せめてその、ものをおっしゃる、貴女の、ほのかな、口許だけでも、見えたらばな」
「貴方の睫毛一筋なりと」

そこに突然現れ、「美しい人たち泣くな」と、助けてくれる老人。
大団円。
「世は戦でも、胡蝶(ちょう)が舞う、撫子(なでしこ)も桔梗も咲くぞ。・・・・馬鹿めが」と呵々(からから)と笑われ、騒々しい下界と、夢のような天守の世界の対比が強調される。

前半、富姫のところへ、猪苗代の城の亀姫が訪ね、土産を持参する。
「それはそれは、お嬉しい。が、お亀樣は人が悪い、中は磐梯山の峰の煙か、虚空蔵の人魂ではないかい。」
「似たもの。ほほほほほ。」
「要りません、そんなもの。」
「上げません。」

仲良しの2人の姫君のやりとり。お付きの者に、「お言葉の花が蝶のやうに飛びまして、お美しい事でござる」と言われるが、まさにその通り。美しくてほのぼのして好きなシーン。
でもこんなにほのぼのしてるのに、この「土産」が、人の生首であるところが、妖しくてまたよい。



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