日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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紀州。
あまりなじみの無い土地である。
一度だけ、伊勢神宮にお参りし、志摩半島で鮑のステーキを食べた。そのくらいの記憶しかない。

そこを旅したルポルタージュ作品ならば、紀州の魅力たっぷりに描かれているのでは。次に旅するときの楽しみになるかもしれない、と手にとってみたらば。
全然そういうものではなかった。

紀州は確かに自然豊かで美しいらしい。
けれど、この本ではそういう風に自然を描写しない。

著者は、自身が被差別部落出身で、著者の一連の小説に出てくる「路地」と呼ばれる空間は、部落を意味しているらしい。

その著者が、ジリジリと、紀伊半島の町を、被差別部落を中心に一つ一つ巡り、見て、聞いて、感じ、地霊と言葉を交わすように、つづるルポルタージュである。
風光明媚なものを期待して読んだ私には、なかなか衝撃的だった。
全体的に妙な緊張感がただよっていて、息をつめて読んでしまう。

はっきり言って、さっぱり意味がわからないところもあるのだが、そもそもこの本は、意味をハッキリさせようとして書かれたものではないので、わからなくてもいい、と後半になって思った。そして魅力的だと思った。
で、イチから読み直す。久しぶりの即再読。
ただじっくり読めばいい。決してあせらず、味わえばいい。考えなくて、分析しなくていいのだ。

わからない単語がいくつかあって、その意味は調べるが、文章の意味がハッキリとわからないところは、そのままにして先へ進む。ただその文章の雰囲気だけを感じて。

差別というものを、簡単に理解したり、分析したり、理由づけたり、抽象化したり、そういう事は著者は求めていないらしい。ただひたすら、場所を訪れ、そこで感じたものを感じたままに述べ、蓄積しつづける。そういう旅が続く。

意味がわからなくなる文章とは、例えば紀伊大島について、
『半島にくっつくようにある島である。半島が半島的状況を示すなら、島は島的状況を示す。そう自分で造語して、その造語の意味を解くために苦心する。』
というような部分。
自分で造語して、その意味を解くために苦心するって何??その意味って結局何??となると、止まってしまって進めない。

著者の追う「差別」なるものについての記述。こういう思いなのだ、とちょっとはここからわかる気がする。
『私の追っているものの一つである、"差別"なるもの、それは何なのだろうかと改めて思った。差別は現存し、差別の構造の粘膜は在る。ただ"差別"とはあまりに言葉が簡単すぎる。"差別"をさらに差別、被差別の回路にかけて分光する必要がある。差異であり、美であり、暴力でありエロチシズムである事を、ひとまず、"差別"と括ってしまっているのではないか。』

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