日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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中勘助の「銀の匙」を買った時に、灘校で中学3年間をかけてこの本を読みこむ授業を行った伝説の国語教師がいた、と何かで読んだ記憶があった。
ニュースでその方の訃報を知り、どんな先生で、どんな授業をしていたのか気になり、この本を購入。
内容は濃く、先生の人柄もわかり、満足。「銀の匙」も名著だが、この本も非常に面白かった。

何たって著者の先生が、面白い。
マリス博士の奇想天外な人生」のマリス博士のように、自分の仕事を愛し、はっきりとした信念があり、ユーモアに富んで、歳をとっても生き生きと人生を楽しんでいる様子が心地よい。101歳で亡くなったそうだが、80代から源氏物語の現代語訳をスタート94歳で完成、98歳で灘校で特別授業、99歳のお祝いは大好きだったタカラジェンヌに囲まれ真っ白なスーツに赤いコサージュと洒落こんで。詠まれた歌も実に楽しげ。

21歳で創立間もない、まだ無名ながらも「日本一の学校」を目指す灘校の国語教師に。校長や先輩からは何の指示もなく、ただ公立では出来ない事もできるよ、と後押しするだけ。自分が中学生の頃の授業を思い出せない事に愕然とし、生涯生徒の記憶に残るような授業を!と必死で教材を探し、たどり着いたのが、「銀の匙」。
もともと大好きな本であり、美しい日本語と、主人公の成長の様子を生徒が自分に重ねて楽しめる点がよい、と。
教科書と違って、指導要領があるわけではないので、まず1年かけて研究ノートを作り、授業で何をやるのか考えてゆく。中勘助本人にも、何度も質問したり。
授業では、著者の研究を生徒に再体験してもらう。各項目に自分で主題をつけ、内容を整理し、様々な言葉の意味や由来を調べ、それを使って短文を作り、美しい表現がどこかを探し、何が美しいのか述べ、物語に出てきたカルタ遊びや凧揚げを実際に行い、どんどん横道にそれ、知識の幅を広げもする。
こんな調子で1ページに数週間かけることもあり、そのことについて著者は「スピードが大事なんじゃない。すぐに役立つものはすぐに役立たなくなる。」という名言を。

特別授業で使われた「銀の匙」第二章までの授業ノートの内容もあり、著者が現役時代に心血注いで作っていたノートがどんなものだったのか具体的にわかる。

先生が語る、「国語を学ぶとは」の部分も良かった、自分の子供には将来この本、読んでほしい。
生まれた時から学習している日本語を、なぜあえて学ぶのか?
わたしたちの生活、精神生活も物質生活も、日本語が、つまり国語がなければ成り立たない、国語は私たちの生活そのもの、ことばは生活に密着し、日常生活に間に合えばよいものではなく、国語を通じて人間形成がなされるのだ、と。

国語勉強のポイントは、読む・書く・話す・聞く・見る・味わう・集める。
いろんな本を読んで読む力をつける。
読んだら読後感を必ず書く、どんな事でもよいので書く、そのうち自然に読解力・表現力が身に付く。国語の基礎能力は「書く」ことから。練習方法として読後感、日記、詩歌をあげ、見たこと聞いたこと感じたこと考えたこと、何でも文章にしてみる。
本当の話し上手になるには、まず書き上手にならねば。
見る・味わうも大事。意味がわかってOKではなく実際に体験してみる。教材に狂言が出たら舞台を見に行く、美術評論を読んだらその美術品を見てみる。
気づいた観点で言葉集めをすることで言葉に敏感になり、国語の豊かさがわかる。

この教えに触発され、しばらくさぼっていた読書感想ブログを更新してみた。
「銀の匙」も読み直したくなってきた。
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「こんな恋愛小説を待ち焦がれていた。わたしは、飛行機のなかで、涙がとまらなくなった・・・・・・」児玉清氏、絶賛!!という帯に惹かれて購入したが、私は全く泣けなかった。恋愛に対しては一人一人価値観が異なり具合が激しいからなのか、恋愛小説で「これはいい」というものにまだ出会っていない気がする。

45歳で亡くなった翻訳家で詩人の四条直美が娘に遺したテープ。
そこに語られる、1970年大阪万博の夏。直美はそこで、人生の宝物というべき恋をする。
その内容を娘の婿が起こした、という形の小説。

婿は娘と小学生からの付き合いで、子供時代の婿が見た、直美の描写がなかなか素敵だ。
祖父はA級戦犯という旧家出身のお嬢様でありながら酒も煙草も嗜む不良で、多くの人に愛されかつまた同じくらいの数の人に憎まれ、気に入らない相手に対しては批判や攻撃はせずただほんの数秒間目を見つめるだけ。子供たちを笑わせる冗談を心得、古い外国の曲を流暢な英語で歌う。

テープで語られる23歳の直美は、親に従って許婚と結婚する前に、自由な時間、自分はこれがしたと言い得るだけの何かを探す時間を求めて、両親の反対を押し切り、大阪万博のコンパニオンをやり、運命の相手、臼井礼と出会う。
親に会わせるほどの仲になるのだが、臼井が隠していたある事実を知り、もう付き合えないという短い手紙を残して直美は逃げ出し、恋は終わる。

しっとりした語りは読みやすく美しい。
女性が思うように生きることが難しかったり、戦後の復興、大阪万博の熱狂ぶりなど、時代の雰囲気がよく書かれており、直美の人生に対する沁みるような言葉たちも良いのだが、ストーリーがすごく良いというわけではなく、なんとなく雰囲気がいいなあ、という感じで最後まで全く泣けなかった。

「これでお終いだ、もうどうにもならない。私自身、何度そう考えたかしれません。でも、運命というものは私たちが考えているよりもずっと気まぐれなのです。昨日の怒りや哀しみが、明日には何物にも代え難い喜びに変わっているかもしれないし、事実、この人生はそうしたことの繰り返しなのです」

海の美しい田舎で、少年が過ごした夏休み。そこで起こる殺人事件。
事件のトリックや動機はあまり納得がいかず、ミステリーとしてすごく面白い!わけではないが、少年と湯川准教授のやりとり、夏らしい描写、偏屈な少年が学ぶ意味・科学の楽しさを知り、負わされた重い枷に対して「いろいろなことをいっぱい勉強して、それからゆっくりと答えを探そう。僕は一人ぼっちじゃないんだから。」と思えるようになるラストが爽やかで良い。

少年の伯母一家の経営する旅館の客が、変死体で見つかる。
客は元警視庁の刑事。何のゆかりもないこの土地に、何をしに来たのか?なぜ殺されたのか?
客がこの町にやってきた理由を、東京で刑事たちが少しずつ明らかにしていく過程も、読み進むたびに手がかりが増えていくのが快感。

科学についての湯川の言葉。

「人類が正しい道を進むためには、この世界がどうなってりうのかを教えてくれる詳しい地図が必要だ。ところが我々が持っている地図はまだまだ未完成で、殆ど使い物にならない。だから二十一世紀になったというのに、人類は相変わらず間違いをしでかす。戦争がなくならないのも、環境を破壊してしまうのも、欠陥だらけの地図しか持ってないからだ。その欠けた部分を解明するのが科学者の使命だ」

それを「僕には関係ない」と言う少年に対してさらに、人類というと大げさに聞こえるが、人が何か行動するときの選択に科学が必要だ、と教える。
たとえば海に行く予定があれば晴れるかどうか天気を知りたいだろう、と。
その天気予報だって、地元の漁師が天気を知るのだって、科学だ。理科の勉強が役に立たないなんて、天気図の見方を覚えてから言うべきだ、と。

「理科嫌いは結構だ。でも覚えておくことだな。わかんないものはどうしようもない、などといっていては、いつか大きな過ちを犯すことになる」

そして物語ラストで、少年にかける言葉。
「どんな問題にも答えは必ずある」
「だけどそれをすぐに導き出せるとはかぎらない。人生においてもそうだ。今すぐには答えを出せない問題なんて、これから先、いくつも現れるだろう。そのたびに悩むことには価値がある。しかし焦る必要はない。答えを出すためには、自分自身の成長が求められている場合も少なくない。だから人間は学び、努力し、自分を磨かなきゃいけないんだ」


★★★☆☆真夏の方程式-----東野圭吾
のどかな昼下がり、主人公がいた新宿の公園で突然の爆発。
誰が、何の目的で?
主人公は、ただのくたびれたアル中の中年男かと思いきや意外な過去があり、その過去がからんで青春の匂い。

あれよあれよと登場人物がつなかったり、主人公が真相にたどりつく過程がご都合主義な感もあり、結末は想像できたり、台詞まわしが不自然だったり、リアリティーには欠けていても、それらは、この本の魅力「いかにもなハードボイルド」を楽しむ邪魔にはならずむしろスパイス。

「のんき」と評される主人公の乾いた感じ。
のんびりだるそうに見えて自分の哲学を曲げない、アル中で全てを諦めきってどうでもよさそうで最後の筋を通していて、礼儀正しく、人を大切にし、呑み込みが早く、知識豊富で行動力があり、時々抜けてる、という魅力。

主人公は、わずかな手掛かりですぐ何かを察し、読者は置き去り。
こいつはどこで何に気付いていま何を調べてるんだ?と関心もったまま読み進む。
お約束のように、この男に惚れる女との、これまた渋い恋愛模様。

奇妙で渋い中堅ヤクザ組長の浅井とのからみも、よい。
わざとらしいくらいかっこいいセリフが恥ずかしくない。

事件の真相が薄皮を剥ぐように明らかになるミステリー的な楽しみと、この男たちの渋さを堪能するハードボイルドな楽しみと、を楽しめる名作。

主人公が、バーで客に出すために作るホットドッグが実に美味しそうで、家でも作ってみた。美味しかった。
異国暮らしの長い語り手の男性「私」と、様々な国籍の女性との出会いや交流を描いた六つの短編。

「私」の名前は出てこず、全編を通して同じ人物かどうかも語られないが、どことなく受け身で、醒めてはいるが見知らぬ人とそつなく知り合いになる無邪気さも有るというキャラクターは同じ。

各女性の外見・雰囲気・性格が編ごとに様々。
「私」との静かなやりとりを、品のよい骨董品を丁寧にさわるように一文字一文字をゆっくり読みたい。

終わり方はどれも曖昧で最初は中途半端で物足りないが、次第にその余韻もまたよしか?と思えてくる。

終わり方が特に印象的なのは、表題作「ゼラニウム」。
階段の薄暗い一角に置かれた真っ赤なゼラニウムが、老婦人の唇へつながり、鮮やか赤が頭に残って終わる。
アリと言えば世間では働き者として知られているが・・・から始まり、その実、ある瞬間を切り取ると、アリの巣の中では7割のアリが「何もしていない」事が観察された。継続的に観察しても、ずっと働かないアリもいる、という導入部分は、興味をそそられる。

全員が一斉に働いて一斉に疲労するより、余力を残しておいた方がよいという群れとしてのメリットや、個体によって刺激に対する反応の違いがあるために、一定の刺激があってもそれで働くアリ・働かないアリが存在するという仕組みなどを、わかりやすく紹介してくれる。

人間のように、どう社会を作ったらよいのか考える個体がいるわけでもないのに、うまく集団での社会が成り立つ虫の世界は、なかなか面白い。
それをわかりやすく解説していて読みやすいが、ページをめくるのがもどかしいほどのドキドキ感はなかった。同じ科学本なら、福井伸一の本の方がドラマチックで面白い、と思った。

エピローグにある、大学の学生が、著者の説明にいったん納得したのに、後から「先生の言ったことは教科書に載っていません」と言ってきたのに対して、

「君は自分の頭で納得したことより、教科書に書いてあるかどうかを正しいかどうかの基準にするのか?科学者は、正しいと思ったことは世界中のすべての人が"それは違う"と言ったとしても"こういう理由であなた方のほうが間違っている"と言わなければならない存在なのに?」

と怒り、学者の仕事は、まだ誰も知らない現象やその説明理論を見つけることだ、という主張や、

「生物の進化や生態の研究には、まだまだ何が出てくるかわからない驚きが残っていると私は思いますし、驚きがないのなら、そんな研究はもうやめた方がましだと思います。人生もそうかもしれませんが、いつも永遠の夏じゃないからこそ、短期的な損得じゃない幸せがあると思うからこそ、面倒臭い人生を生きる価値がある、とは思いませんか?」

という結びは素敵だ。
男と女に分かれる発生の仕組みについて、理科的でなく、ドラマチックな文章で語っていて、単にその仕組みだけでなく、その仕組みを解き明かそうと必死な研究者たちの歴史やドラマも見える書き方はよい。
が、語ろうとする内容が「男と女の分化の仕組み」についてのみで、これを一生懸命引き延ばして長くしている感があり、「生物と無生物のあいだ」に比べると、薄っぺらな印象。

内容的にはあまり関係ないが、プロローグにある、とある学会でのエピソードはとても素敵だ、と思った。

世界中から多数の研究者が集まる国際学会の基調講演を行ったスイスの重鎮学者が、開口一番、こう言った。

「科学の世界の公用語は、皆さん、英語であると当然のようにお考えになっていると思いますが、実は違います」

その学者はドイツ系スイス人で、英語もかなりドイツなまり、まさかドイツ語が公用語だなんて言わないだろうな、と皆が何を言うんだ?と次の言葉を待っていると、

「科学の世界の公用語は、へたな英語です。どうかこの会期中、あらゆる人が進んで議論に参加されることを望みます」

何とその場にふさわしい、素敵なスピーチ。
会場からは大きな笑いと拍手が起こり、このスピーチのおかげなのか、この学会では、どのセッションでもアジアから参加した、非英語民の活発な議論が目立った、とか。


空間的にも時間的にも、人は全てを眺める事はできない、故に部分を切り取り観察して世界を理解しようとするが本当は全てのモノは一部分だけで完結するものはない、というテーマが軸。

これにからめて、科学界のドラマチックなスキャンダルや様々なエピソードを紹介され、飽きないし、テーマもぶれず構成もよい。が、そもそもこのテーマにあまり魅力を感じないので、読んでる間は面白いが、すぐ忘れてしまいそう。「生物と無生物のあいだ」の方がテーマ的に面白かった。

『この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。

そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。
物質・エネルギー・情報を、やりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。』

という美しい結びは、さすが。

そうして、時間的な断面や空間的な部分を見ても、それは真実の姿ではないし、かといって全てを眺めることはできないとして、しかし、部分を観察してそれを関連付け・不足を補い、鳥瞰することを繰り返すことが、「世界に対する」という事であるとし、世界のリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない、というメッセージもなかなかよかった。
動きのあるドラマチックなミステリーを、わかりやすい文章で一気に読ませてくれる。
読みやすい事は読みやすいが、ストーリーはありきたりだし、登場人物にもあまり魅力を感じなかった。
この人の作品は2~3個しか読んでいないが、どれもそんな感じがしてあまり好きではないかもしれない。

氏家鞠子、小林双葉。2人の若い女性の視点で「鞠子の章」「双葉の章」と交互に物語が進む。
鞠子は北海道の地で、大学教授の父、優しい母に育てられたお嬢様気質の娘。
双葉は東京で、ちゃきちゃきした看護婦の母と暮らす、アマチュアロックバンドのボーカル。活発で大胆。
何のつながりもないはずの2人は、ある事件をきっかけに、それぞれ、自分の出生を探り始める。
2人をつなぐ糸が徐々に明らかになり、鞠子は東京へ、双葉は北海道へ移動し、東京と北海道を舞台に、調査に協力してくれる人や、大物政治家の影が見えたり、敵か味方かわからない人物が次々と現れ、2人の過去が明らかになってゆく。

「現代医学の危険な領域を描くサスペンス長編」と裏表紙にあるが、テーマとなる科学の悪用についても、それほど掘り下げた感じがしないし、医療ネタとしても「おおっ」と思える新鮮な驚きがなかった。1996年出版当時は新しかったのかもしれない。
どうも、賛否両論がわかれる本らしい。
私は、面白かった。
生物の専門家が、生物と無生物を分ける定義が新しく示されるのを期待して読むと期待外れなようだ。
また、全く生物に興味がない人が何の苦もなく読み進められるほど簡単でもない。


内容のほとんどは高校の生物の教科書に載っていた内容だが、それを、情熱をこめて語られるのが楽しい。
高校の時、こんな風に「生物」を習っていたら、生徒達は、「生物」を面白いと思えただろう。
生き物の仕組みはすごい、と改めて思った。
発見した科学者たちの苦労話や努力やの人間味あるエピソードもあり、生物学者の研究生活ぶりがちらほら出てくるのも、まったく違う分野の世界を垣間見ることができて新鮮だった。

生物と、無生物は、どこで分かれるのか?
生物の定義とはなにか?

高校で習ったのは、「自己複製するもの」が生物、という定義。
この本でも、その定義は最初に出てくる。

その他に、著者が、生物の定義としてあげているのが、
・構成する分子が、つねに外から新しく供給され、入れ替わっている
・その中には、不可逆な時間が流れている
という2点。

2点目の方、著者の言葉で書くと、

『生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。』

とてもロマンチックな書き方。
この人の文章は、自然科学のふるまいにロマンを感じて理系に進んだころの気持ちを思い出させる。
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