日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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ユルい感じの中華ファンタジー。
「しゃばけ」「精霊の守り人」と並べて三大ファンタジーと銘うってたが、他の2つに比べると密度が薄い感じで。物足りない。
でもその薄さがユルくて楽だ。

主人公からしてユルい。
唐の時代。
エリート役人の息子・王弁は、幼い頃から英才教育を受けて育つが、働かなくても親の金で生きていけると気づいて、何もしなくなってしまう。
働かず学ばず、毎日庭を眺めたり酒場に行ったり 悪い友達と遊行三昧でもなく女の影もなく1人ひたすらだらだら過ごす日々。

その人生が変わるのは、親の使いで、山に住んでいるという仙人に、贈り物を届けに行った時。
仙人なんているもんかと言う王弁の前に、うらわかい美少女が現れ、僕僕と名乗る。
この少女が実は仙人で、姿を自在に変えたり、病気を治したり、そしてやがて旅に出る僕僕に、王弁も付いていく。

前半は退屈だが、旅に出てからは、物語がリズムに乗り、読みやすくなる。

旅先で、様々な神様や仙人に出会い、時の皇帝・玄宗(楊貴妃に血迷う前の名君だった頃)も出てくる。
歴史や神様についてのわかりやすい解説が魅力。

僕僕は、自分を「ボク」と呼び、飄々として無敵で、王弁が抱く恋心にも「そういうのは大事」だが「食べたりするのと同じ」という冷静な態度。
そのくせ後半では甘える場面もあり、いかにもなツンデレキャラがやや鼻につきつつも可愛いと思う。

王弁が温泉で僕僕にからかわれるシーンが、漫画っぽい。
・・・と思ったのでそのシーンを漫画にしてみた。

僕僕先生1
僕僕先生2
僕僕先生3
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具体的にはそれほど陰惨な事件が起こるわけでもないのに、じわりと漂う不気味な雰囲気、嫌悪感。練られた文章が、読んでいるうちに、不気味さと嫌悪感をどんどん積み上げてくれる。ストーリー自体はそれほど面白いわけではないと思うが、この雰囲気はどうしたら出せるのだろう?

主人公・佐知子の、高校生の一人息子が失踪してしまう。
息子のガールフレンドやその父親も協力してくれるが、息子は見つからない。
離婚した精神科医の夫や、その後妻や娘、息子の担任教師、など登場人物は多く、人間関係は複雑。
それらの人物、一人一人がどことなく不気味で、何を考えているのかわからない。「他人の事は本当は決してわからない」というテーマが裏になるのだろうか?

読んでいる間は、夢中になってしまうが、読み終わると、何かが残るような感じでは、あまりない。

古い茶箪笥の抽匣(ひきだし)から出てきた銀の匙。
それは、小さい頃、漢方薬を飲むのに、伯母さんがどこからか探してきて、終始薬を飲ませてくれていたもの。
この小さな匙を皮切りに、主人公の少年時代の思い出が著者の自伝風につづられる。

子煩悩でひょうきんで優しい伯母さんがあちこち連れて行ってくれたり、家が引っ越したり、学校に行ったり、友達が出来たり、いじめられたり、初恋したり。
そんな他愛も無い出来事の数々が並べられただけなのだが、著者の独特な感覚や、また描写もみずみずしく、子供の見た世界をやさしく初々しく表現していて、読むのが実に心地よい名作。

小さなおもちゃを愛したり、自然や鈴をいつくしむシーンも好きだが、初恋の女の子とのシーンは珠玉。

『 ある晩私たちは肱(ひじ)かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとおるように蒼白くみえた。それはお月様のほんの一時のいたずらだったが、もしこれがほんとならば と頼もしいような気がして
「こら、こんなに綺麗にみえる」
といっておちゃんのまえへ腕をだした。
「まあ」
 そういいながら恋人は袖をまくって
「あたしだって」
といって見せた。しなやかな腕が躐石みたいにみえる。二人はそれを不思議がってこの腕から脛(はぎ)、脛から胸へと、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。』

「ひやひやする夜気」とか、他の箇所でも「美しく寂しい半島のその海岸の小山のふところにこっとりとたった草ぶきの建物」とか、擬音の使い方が独特で、かつ美しい。

前半はまだ幼くて世界もせまく、主人公が感じる感情も「あれは好きとかこれは嫌い」くらいなのだが、学校に行ってからは、出会う人も増え、考えることも著しく面白くなってゆくのもまたよい。
中島らもがアジア各国を旅して感じたアジアの背骨のようなもの、その匂い、空気の色を描いた短編集。

どこかの南の島から始まってスリランカ、バンコク、上海、香港、インド、韓国、ベトナム、バリと続く。アジアのねっとりしたかぐわしい、雑多な雰囲気が香っている。読後、旅に出たくなる。
寓話・昔話風だったり旅の紀行文のようであったり様々だが、いずれも、短い文がテンポよく並び、終わりにもいちいちちゃんとオチがあるのが小気味よい。

インドで中島らもが目撃した、あるシーンについての記述が印象的。

『あの美しい一瞬。そうした瞬間を紡いでいくためにだけ、わたしは何千枚という原稿用紙を文字で埋め尽くしていくのではないだろうか。』
まるで老人のように覇気がなく、平和で穏やかに暮らす夫婦。
何の波乱もない二人の地味な生活。それでも互いに思いやり、地味な幸福が感じられる。
風流と言えば、言えなくもない、静かな生活が、だらだらと単調に描かれる。

夫の宗助はとにかく事なかれ主義で、弟の小六の学費について、親戚と話し合わなければならないのを、いつまでも放置しておいたりする。
弟は不甲斐ない兄に腹を立てる。

そこで宗助が、そんな小六を見て、自分も若い頃は血気盛んだったと思い返すシーンが印象的。
こういう気持ちは誰にでもある。
昔、言った事、考えた事が、いま思うと「あの頃は若かったなー」と懐かしく思うような時。
若い頃の自分が遠くて、その延長がいまの自分である事が、つながらないような。
切なさと、穏やかな満ち足りた感じが半々な。

しかし、この本、物語として面白いのか?と問われると・・・
単調で眠くなる。
結局最後まで何も起こらない。
途中、何度も挫折しそうになった。

だからこそ最後のセリフは、その後の波乱を予感させるようで無気味。
それを味わうためのひたすらの単調なのだろうか?

紀州。
あまりなじみの無い土地である。
一度だけ、伊勢神宮にお参りし、志摩半島で鮑のステーキを食べた。そのくらいの記憶しかない。

そこを旅したルポルタージュ作品ならば、紀州の魅力たっぷりに描かれているのでは。次に旅するときの楽しみになるかもしれない、と手にとってみたらば。
全然そういうものではなかった。

紀州は確かに自然豊かで美しいらしい。
けれど、この本ではそういう風に自然を描写しない。

著者は、自身が被差別部落出身で、著者の一連の小説に出てくる「路地」と呼ばれる空間は、部落を意味しているらしい。

その著者が、ジリジリと、紀伊半島の町を、被差別部落を中心に一つ一つ巡り、見て、聞いて、感じ、地霊と言葉を交わすように、つづるルポルタージュである。
風光明媚なものを期待して読んだ私には、なかなか衝撃的だった。
全体的に妙な緊張感がただよっていて、息をつめて読んでしまう。

はっきり言って、さっぱり意味がわからないところもあるのだが、そもそもこの本は、意味をハッキリさせようとして書かれたものではないので、わからなくてもいい、と後半になって思った。そして魅力的だと思った。
で、イチから読み直す。久しぶりの即再読。
ただじっくり読めばいい。決してあせらず、味わえばいい。考えなくて、分析しなくていいのだ。

わからない単語がいくつかあって、その意味は調べるが、文章の意味がハッキリとわからないところは、そのままにして先へ進む。ただその文章の雰囲気だけを感じて。

差別というものを、簡単に理解したり、分析したり、理由づけたり、抽象化したり、そういう事は著者は求めていないらしい。ただひたすら、場所を訪れ、そこで感じたものを感じたままに述べ、蓄積しつづける。そういう旅が続く。

意味がわからなくなる文章とは、例えば紀伊大島について、
『半島にくっつくようにある島である。半島が半島的状況を示すなら、島は島的状況を示す。そう自分で造語して、その造語の意味を解くために苦心する。』
というような部分。
自分で造語して、その意味を解くために苦心するって何??その意味って結局何??となると、止まってしまって進めない。

著者の追う「差別」なるものについての記述。こういう思いなのだ、とちょっとはここからわかる気がする。
『私の追っているものの一つである、"差別"なるもの、それは何なのだろうかと改めて思った。差別は現存し、差別の構造の粘膜は在る。ただ"差別"とはあまりに言葉が簡単すぎる。"差別"をさらに差別、被差別の回路にかけて分光する必要がある。差異であり、美であり、暴力でありエロチシズムである事を、ひとまず、"差別"と括ってしまっているのではないか。』

息苦しいほどの柏の葉の緑。
その葉で黒く染めようとした糸が、思わぬ鮮やかな珊瑚色になる・・・とか。。

さやえんどうの若くてみずみずしい緑、とか・・・
この人の小説では色がとても印象に残る。

蓉子、与希子、紀久、マーガレット。
4人の女性が、古い日本家屋に下宿する。
そこは、蓉子の亡くなった祖母の家。網戸もエアコンも無い、あたたかい木の手触り。庭に咲く花、野草たち。そこは時が止まったような空間。

4人はいずれも、手仕事を好む。
草木を使って糸を染めたり、機織りをしたり、羊毛をつむいだり・・・。

そして、かつては話すことができた、という蓉子の持つ市松人形、りかさん。

おだやかな4人の生活が、日本家屋のやわらかい情景と共に、丁寧につづられて和んでいると、後半は一転、オカルトというかファンタジーというか、過去からの因縁がつむがれ、意外な展開に。
それに、織物の歴史やそれを支えた名もない女性たちへの考察が入ったり、異国からの手紙が混ざったり、ナンダこの展開は??と思っているうち、ラスト、激しいあでやかな1枚の画(え)をまぶたにやきつけて、終わる。

ぎっしり詰め込まれてるけれど、読んでて不快にならない。織物や手仕事、異国の文化に対して、著者の考え方が深くしっかりしたもので、それを重くならず、けれどしっかりと書いているからだろう。なんとも言えない不思議な印象が残る。
この作家さんは、もう少し読んでみたい。
本作は、「りかさん (新潮文庫)」という本の、続きらしい。次はそれかな。

映画スターウォーズで、レイア姫が、ハン・ソロ船長と共に敵に捕らわれ絶体絶命の時、愛の告白を、する。
"I Love you"
それに対し、ハン・ソロは
"I Know"

なんとゆう洗練された、スイートな返し方なんだろう!と感動した。イイ男たるもの、自分への真剣な愛に「気づかない」ではやはり済まされない。しかし勘違いもいかん。自分も好き、相手も自分を好き、という確信があるという両想いにだけ許される返答。

この本でも、おばあちゃんと、孫娘・まいの会話において、
「おばあちゃん大好き」というまいに対して、イギリス人のおばあちゃんは
「アイ・ノウ」と微笑んで答える。
すごくスイートなやりとりだなあ、と思う。これは、日本語ではなくやはり、英語で言うのがよい。

モノクロなイメージの「名短編、さらにあり」のアトで、反動で、ひたすらに明るいモノが読みたくなった。そんなときに、本棚をあさって手にとった1冊目が村上龍の「69」。2冊目が、これだ。「69」が極彩色なら、こちらはパステルカラーの明るさ。
ほのぼのとしたいい話、何度読んでも最後は泣けてしまう。

物語の、最後の一文が、私の好きな「アイ・ノウ」である。その効果的な使い方。是非直接見てほしい。

中学校のクラスメートと人間関係がうまくいかず、登校拒否になった「まい」は、山の中に住むおばあちゃんの家でしばらくを過ごす。
おばあちゃんは、豊かな自然の中で、一人暮らし。
野いちごでジャムを作ったり、ハーブティーを淹れたり、ラベンダーの茂みにかぶせて清潔な匂いのするシーツ、朝は産みたて卵の目玉焼き。
庭にあふれるハーブ、日当たりのよい木の切り株、ルビーのような野いちごの群生、鳥の声。
美しい、というより可愛らしく描かれる、豊かな自然。

仕事で毎日終電帰りの今の私が、うっとりしてしまうような生活が、ここにある。
丁寧な日常生活が、可愛くて美しい自然描写が、宝物のような1冊。

おばあちゃんは、自分は魔女だと、まいに打ち明ける。
それは空が飛べるとかそういう類の派手な魔法を使うのではなく、身体を健康に保ったり自然と共存する知恵や知識、それにちょっとした特殊な能力。そんな、リアルな魔女。
「私も魔女になりたい」というまいに、おばあちゃんの課した課題は
「早寝早起き」「食事をしっかりとる」「よく運動」「規則正しい生活」そして「自分で決める」「決めたことをやり遂げる」
いたってシンプルな、けれどとても難しいこと。
おばあちゃんの家でこの課題にそって生活していくうちに、まいは、生きていく力を身に付ける。この課題は、一生彼女を守ってくれるだろう。

おばあちゃんと、不本意な、気まずい別れ。
そして訪れる、本当のお別れ。
けれど、おばあちゃんは、西の魔女は、まいとの約束を、忘れていなかった。
このラストが。
あっさりとしたラストなのに、すごく心に残る。簡単な伏線なんだけど、とても響く。

タイトル通り、まいが「西の魔女」と呼ぶ、おばあちゃんが死んでしまう話なのだけど、人が死ぬ話なのに、この本は、明るい。

これを読むと、思わず、生活をきちんとしたくなる。
久々の料理。野菜を煮込んでみた。
半年ぶりに・・・・掃除機を、かけてみた。


ストーリー:◎
35歳の中年男が、アル中で入院し、病院でいろいろな患者や医師に出会い、また、アル中について考察するハナシ。
作者の実体験がかなり入っているらしい。

中島らもの文章は、飄々としていて乾いている。
だから悲惨なハナシもあまり生々しくなく、ドライな感じが読みやすい。
アル中の男についても、どこか他人事のような描写。アル中についての考察がまたドライで、それゆえに的確で面白い。作者がアル中だった時またはその後に、きっと、こんな事をどこか他人事風に、でも緻密に調べたり考えたりしていたんだろうなあ。

主人公は、不安やイライラを感じると、「酒をいま飲んだら・・」と考える回路ができている、と自覚する。
『精神病理学で言えば報酬系の回路が確立されてしまっているわけだ。(略)
酒をやめるためには、飲んで得られる報酬よりも、もっと大きな何かを「飲まない」ことによって与えられなければならない。
それはたぶん、生存への希望、他者への愛、幸福などだろうと思う。』

『人間はそれでいいのではないか。名前すらなく、飲んで飲んで飲みまくったあげく目詰まりした「アルコール濾過器」として、よく燃えて骨も残さない。きれいさっぱりとした「具体」であって何がいけないのか。どうして人はアル中であってはいけないのか。えらそうな「人間」でなくてはならないのか。』

作中で、久里浜式アルコール依存症スクリーニングテストというのがあり、
-5点以下:まったく正常
-5~0点:まあまあ正常
0~2点:問題あり
2点以上:きわめて問題多い
という判定で、主人公は12.5点。
私もやってみたら、3点。うーむ、「きわめて問題多い」のだろうか。

酒つながりで、この本にも、「「サヨナラ」ダケガ人生カ―漢詩七五訳に遊ぶ」で読んだ詩が出てきた。奇遇だ。この詩もとても好き。
「勧酒」という漢詩を、井伏鱒二が“戯訳”したもの。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
ストーリー:◎
9つの奇想天外なストーリーの短編集。
動きがある展開が粋で、発想が面白い。起承転結がハッキリしていて、結びの部分が皮肉的で意外性や茶目っ気があるのがいい。

特に好きな3つ。

●「日の出通り商店街 いきいきデー」
日の出通り商店街には、年に1度、いきいきデーなるイベントがある。これは、「誰を殺してもいい楽しい祭り」。
ただし、暗黙のルールがいくつかあり、その1つに、
「己れの職能に関するノウハウをもってプレイすること」
が、ある。
そこはそれ、商店街だもの、中華料理屋は中華鍋と中華包丁を持って、天ぷら屋は煮え油を武器に、商店街をウロウロし、出会った相手と命を賭けて戦う。
そんな武器たちなので、戦いの様子も、どこかコミカル。

このぶっとんだ発想が、どこから出てくるのだろう?

●「掌」
同棲する男女の部屋のふすまについているシミ。
女性は、赤ちゃんが汚れた手でさわった後にカビが生えたものではないか?と言うが・・・。

最後のシーンがすごく映像的で、その光景を想像してしまってコワい。
凍りつくような、終わり方が印象的。

●「ラブ・イン・エレベーター」
新築ビルのエレベーターに乗り合わせた男女。
エレベーターはごくフツウに上昇を始めるが。
いつまで経っても、止まらない。
中の男女に正確な時間はわからないが、何日も、ひょっとしたら何年も、上昇を続けているのでは・・・?
これも発想が面白い。オチも洒落ている。
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