日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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大西洋でマグロの新漁場開拓を行い、半年間かけて欧州をまわって帰る水産庁の漁業調査船に船医として乗り込んだ著者の、船旅紀行文。航海は1958年、1965年発売の古い本だが、著者の好奇心と、ユーモアと鋭さあふれる文章は、実に刺激的で、古臭さを感じさせない面白さ。
海の景色の描写も美しく、船旅に出てみたくなる。

どこまで嘘だか本当だかわからないヨタ話が真面目に書いてあるのも、時々鋭い考察が入るのも、お茶目な著者がやるいたずらも、1つ1つのエピソードは、それほど大げさなものでもないのに、くすっと笑ったり、微笑ましいと思ったり、むうと唸ったり、すごく楽しんで読める。

船酔いについての考察。
『酒に強い人は船にも強いという説は、むろん例外もあるが一理はある。船酔いになる前にアルコールに酔ってしまえば大丈夫というのは本当のことだ。しかし大抵の人はすでに酒の匂いを嗅ぐのも厭になっているだろう。そこを無理して飲む。ホロ酔いになるころには船酔いはどこかへ行ってしまうだろう。間違ってたとえ吐いたとしても、少なくともどっちでやられたのかはわからないのである。』

シンガポールでは、娼婦街についてちょっと述べては『こんなことは私としてはくわしく書くわけにはいかぬ』。ホールの若い娘とドライブに出かけ、レストランで食事のシーンの後は突然、『だが私としてはこれ以上くわしく書くわけにはいかぬ。』で終わってしまう。

医者について自戒もこめた考察。
『死んだ方がマシな人間がいくらいたとて、死そのものはやはり虔(つつま)しい根源的なあるものであり、その前では怖れおののくのが本当である。
医学教育はまずフォルマリン漬けの死体を切りきざむことから始まり、そんなものは平気にならねばならないのだが、こうして医者は次第に愚かになり、生命と共に死をも尊ぶべきことを忘れてしまう。』

アントワープでは、寺院の前の広場で人々の行きかうのを眺めている。ただそれだけの事に退屈しないで、それをこんな文章にできる著者のみずみずしさ。
『ノートル・ダムの前の広場にくると、大勢の爺さん婆さん、子守車を前にした父親などがベンチに腰かけている。あたりを小さな子供が風船をもって走りまわっている。ほんの小さな子を転ばぬように紐でゆわえて歩かせている母親もいる。花売りの婆さんにはこの世のものならず太り、かつ着ぶくれているのもいて、そういう善良そうな、あるいはやや意地わるげな皺だらけの顔は、いくら見ていても見飽きることがない。』


花の都・パリについて、書くことはたくさんあるだろうに、
『パリのことは、それを見たことがない人ほどよく知っているようなので省略しておこう。』
とあっさり省略する潔さ。

フランスで友人と再会したくだりも好きだ。
『私は大体が文学の話は御免な方であるが、この幾何かの時間ほど楽しかったことは久しくなかった。持つべきものは友であり、また友というものは少ないほどよい。沢山友なるものを持っている人はどんどん絶交すべきである。』




船員の留守中に部屋に入り、ベッドに催涙ガス弾を撃ち込み、船員が寝に戻って悶絶するだろうとほくそ笑んでいたら、想定外に、船室の換気装置のせいでガスが船じゅうにまわってしまう。
目が痛い、食中毒ではないか?と若い船員が訴えてくるが、

『一方、やはりどこにも鈍感な男はいて、
「バカだなあ。お前、そりゃノイローゼだよ」
「そうだ、ノイローゼだ。大丈夫、大丈夫」と私は言った。』

漫画のようによくできた、珠玉のシーンだ。

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愛した男の子供をただこっそりと見に行っただけの希和子は、小さくてあたたかくて笑っている赤ん坊を目の当たりにして、「私がまもる」という想いに支配され、誘拐してしまう。薫と名づけた不倫相手の子供を連れてひたすら逃げる人生。前半はその逃避行を希和子の視点、後半は誘拐された子供が成長してからの物語。

淡々とした中にも張り詰めた緊張があり、続きが気になる上手な語り。ただ、不倫相手の子供を誘拐とか、新興宗教とか、週刊誌にありそうなスキャンダラスなネタが満載で、一見面白そうだが、小説として熟成しているかというと、そうでもない。

誘拐時に発生したという火事が、希和子は身に覚えがないという伏線が、意外な展開になるかと思いきや何もなかったのも肩すかし。物語として、火事を起こす必要が果たしてあったのだろうか?

誘拐された子供の物語も、幼少時を誘拐犯と過ごし、実の家族や人との距離感に悩み、克服する話にしてはどこか浅いし、内容も短い。
イラストレーターこぐれひでこさんの料理エッセイ。
いつかどこかで食べた味とか、ぼんやり頭に浮かぶいま食べたい味を、実験のように「あれを入れてみて」「これを入れてみて」と即座に再現してみるアグレッシブさが小気味よい。
料理のレシピは数行にまとまっていて、なんだか簡単にできそう、と思わせられるし、作ったあとにそれを食べた感想が実に素直においしそうに描かれていて、思わず「どれどれ私も!」と作る気になってしまう。
どれもこれも、時間もかからず、材料も身近で、その食べ物に出あった時のエピソードなども楽しい。

食べることが大好きな私には、読んでるだけでも幸せな1冊。

たとえば、トマトのファルシ。
作り方は簡単。
トマトの中身をスプーンでくりぬいてみじん切りにし、豚挽き肉と玉ねぎ・パセリのみじん切り、塩、こしょうとあわせて、中身が空いたトマトに詰め込んでグラタン皿に入れ(余った具はトマトの周りに敷く)オーブン180度で20分焼く。

この、あつあつトマトを初めて知り合いのフランス人宅で食べた著者の感想は、

『そのとき口から漏れたのは「セ・ボン(おいしい)」という言葉。熱を加えられたために生まれたトマトの深いコクと甘みを含んだ酸味が、トマトに詰め込まれた肉汁とからみあって、それまで経験したことのない深い味わい。フランス料理とはいえ、おなかに優しいさわやかな料理だったのである。』

これを読んで、即日、トマトを買いに走ってしまった。

気の抜けたような(いい意味で)淡い料理や野菜のイラストが、箸休め的に味わえるのも嬉しい。

著者が三度の食事をアップしているWeb日記。こちらも楽しい。
http://www.cafeglobe.com/travel/kogure/
このあと、「玻璃の天」、直木賞受賞作「鷺と雪」と続くシリーズ一作目。

舞台は、昭和7年の日本。
太平洋戦争前の不安定な時代、不自由な社会。


そんな中、士族出身の上流家庭で、しかしのびのびと育った令嬢の元に、新しいお付きの運転手がやってくる。
この時代には珍しく、女性の運転手。
宝塚を彷彿させる、流麗な容姿、颯爽とした身のこなし、控え目で言葉は少ないが常に鋭い。とにかくかっこいい。

令嬢は、北村薫の本でよく見かけるような、素直でいい子。
まだ10代半ばで不自由なく育ったのに、思慮深く聡明なきらめきが見えて、本好き。
運転手のあだ名を「ベッキーさん」と名付ける。
サッカレーの長編小説「虚栄の市」に出てくる才気豊かな主人公の名前だ。

ベッキーさんのさりげない助言で、令嬢が謎ときする短編集。
身分格差など社会の理不尽さに少しずつ対面していきそうな雰囲気。
それに伴う、令嬢の成長が楽しみなシリーズになりそう。
謎とき自体は、わりと地味だ。
連作短編の名手、加納朋子。
本作も、6つの短編で構成されており、それぞれに主人公が違うのだが、全体で1つの話になっている。この構成がうまい。

17歳の女子高生・安藤麻衣子が、通り魔に殺された。

最初の短編は、麻衣子の友人・直子の父親が、雨の中、葬儀に参加するシーンから始まる。
娘の直子は麻衣子の死以降、様子がおかしくなってしまった。
まるで麻衣子の幽霊が乗り移ったかのような言動。
葬儀で出会った麻衣子や直子の通う高校の保健の養護教諭・神野先生に、それを打ち明けると、彼女は話を聞いただけで、その幽霊の真相を解き明かす。

次の短編では、主人公は、神野先生の同僚の英語教諭になり、というように、死んだ麻衣子を核にしながら、少しずつ視点がうつってゆく。
6話すすむうちに、とびきりキレイで成績も優秀、皆のアコガレの的だった麻衣子の内面が見えてくる。若くて賑々しく生を謳歌する女子高生達のガラスのような脆さが端々に書かれる。

不安定な女子高生達のカウンセラー的な存在で、どの短編でも謎解き役となる聡明な神野先生。

実は、この神野先生が、悲しい過去を抱えていることが、物語がすすむと、わかってくる。
その事件が、この短編の実は、核となる。

麻衣子の死の真相は、ちょっと無理矢理感があるが、連作短編としてはよくできている。
1つ1つの短編にも、謎解きがあり、よくまとまっているが、それが集まって全体で1つの話となり、1短編を読み終えると、全体もちょっと進んでいる。それが、最後にすべてつながる。
この進み具合が絶妙で、さすが、短編の名手。

若い命が無残に奪われたり、過去の悲しい事件とかやや暗い色調だが、最後にこれを挽回するような後味のよいラストがあり、全体的に女性らしい優しい雰囲気。
8つの短編。

表題作の「モノレールねこ」では、主人公の小学生が、伝書鳩ならぬ伝書猫をつかって、首輪に手紙をはさんで、見知らぬ相手と文通する。
こういう、日常にありそうだけど本当にあったらちょっとしたファンタジーになるようなエピソードが、なかなか可愛らしい。

また、モノレールねこ、という命名がいい。
タイトルだけ見た時は、その名前の由来がわからなかったが、読んだら、納得。想像して、クスっと笑ってしまう。あーわかる、と思う。
著者は、日常にある、こういう何気ない景色を見て、楽しめる人なんだろう。そういうの、好きだ。

「いかにもお涙ちょうだい」なストーリーが多かったが、軽くてコミカルな文体と、真摯なぬくもりが感じられるまなざしと、読み手の予測の半歩先をいく小さなビックリがうまくちりばめられていて、こんなんで泣かないぞーという天邪鬼な気持ちにならず、素直に泣けた。

得意の「日常の謎」を解く話は無いが、面白かった。

「セイムタイム・ネクストイヤー」の小さなビックリは特にうまいなあ、と思う。
悲しい話だけど、悲しさだけでなく、小気味よい展開と、上等なビロードのような手触りのあたたかさがあって、この本の中では比較的オトナっぽいしっとりした幻想的なムードが漂う。


収録作品:
「モノレールねこ」
「パズルの中の犬」
「マイ・フーリッシュ・アンクル」
「シンデレラのお城」
「セイムタイム・ネクストイヤー」
「ちょうちょう」
「ポトスの樹」
「バルタン最期の日」

やわらかい色彩の表紙の絵が可愛かった。
オテル・ド・モル・ドルモン・ビアン。
この響きだけで、すでに何だかステキな、これは、とあるオテルの名前。

この優雅さは、やはりフランス語。
ビアンは、「tres bien」(トレ ビアン)のビアンだろうか。
日本語にすると「ぐっすりもぐらホテル」というような意味らしい。

このオテル。ちょっと不思議な設定なのだが、いかにも本当にありそうに仔細に描かれるホテルの描写がとてもステキでうっとりする。

このオテルは、よい眠りをお客様に与えるために、在る。
全てはそのための施設、そのための決まり。
入り口へは、ビルとビルとの狭い隙間を体をヨコにして進まないと辿り着けない。
インターフォン付きのドアより向こうは、会員限定の静かな空間。
日の入りと共にチェックイン開始。
日の出と共にチェックアウトしなくてはならない。
13階建ての建物は、上にではなく下へ伸び、地下に行くほど、室内の空気は密で重い。
マホガニーの机に、牛皮の椅子があるフロント。
何も匂いがしない、洗い立てのリネン。
ここで働く従業員のモットー。想い。

ひんやりと乾いて、程よく糊がきいた、洗い立ての清潔な真っ白いリネン。
そういう肌触りがする文章。
よろこんでとびこんで横になって眠りたい。

主人公・希里は、働き口を求めてこのオテルにやってきて、その眠りを誘う顔をかわれて、即採用。
希里の目を通して、オテルの詳細が語られてゆく。

希里の家族は、ちょっとフクザツで、両親、双児の妹、妹の夫、妹夫婦の小学生になる娘という構成だが、病弱で問題児だった妹は、クスリをやって入院中。
両親はそれにつきっきり。
妹の夫や娘と、微妙な距離感を保ち、1つの家で暮らす、そこはかとなく重苦しい設定なのだが、淡々とした表現があまりそれを感じさせない。さらりと乾いた印象のまま、悲惨な家庭が語られて、最後にそれでも妹への愛がポッと灯るように印象に残って終わる、快い小説。

私が読んだのは文庫版だが、ハードカバーの本の、表紙の青がとてもキレイ。

第131回芥川賞候補作でもある。
この著者は、何度か候補になっているがまだ受賞してない人のようだ。
北村薫、宮部みゆき、の二大ミステリー作家が選んだアンソロジー「名短篇、ここにあり」の続編。
昭和初期から終戦直後に最盛期を誇った作家たちの短編が並ぶ。

前作の方が印象深かった。
時代背景からか、貧しさや死が題材だったり怖いモノも多く、全体的に古くて暗い印象。

特に印象に残ったのは、

●吉屋信子「鬼火」
ガスの集金人が体験する身の毛のよだつような、怪談。
人気の途絶えた家の暗~いシンとした台所に、ぼうっと光り続ける青いガスの炎。
・・・こわい。実にこわい。
こういう絵画的なイメージがくっきり浮かぶと、やはり心に残って忘れられない。
幽霊が出るわけではないが、立派な怪談。
後味の悪さも最高、この短さでこの印象の強さはすごい。

●岩野泡鳴「ぼんち」
人が死にかけているシリアスな話なのに、滑稽にまとめられている。
「で、何が言いたいの?」と思ってしまうストーリーなんだが、北村薫と宮部みゆきは、あとがきの対談でこう書いている。

『「文学とは人間如何に生くべきかを書くものである」と言う人に見せてやったらどうか、と思うんですけれど。なんという無意味、なんという馬鹿馬鹿しい人生、こういうものを書くということも、小説の一つの面としてあるんだということを強く感じましたね。』

『作品を発表すると「テーマは何だ」「何が書きたかったんだ」と、インタビューが来ますよね。私はそういう真面目な人にこれを読んでもらいたい。このテーマは何だ?かくも無意味無駄な馬鹿らしい死、それだけなんですよね。それだけで、読んだ人間の心を動かすし、忘れられないですね、これは。』

作家がこういう事を考えてるのが面白いと思った。
そうか、小説って、別にテーマがなくても、いいんだ。

一人で読んでいたら、さらりと読み流して特に何も感じない作品でも、この対談のように、他の人の(それも北村薫と宮部みゆきのような博覧強記な現役の作家さんの)感じたことをつまみ食いしつつ読むと、「ああそうか」と共感したり「そうは思わないなー」と反発してみたり。が、できるのが、楽しい。

収録作品は下記のとおり。

舟橋聖一「華燭」
永井龍男「出口入口」
林芙美子「骨」
久住十蘭「雲の小径」
十和田操「押入の中の鏡花先生」
川口松太郎「不動図」
川口松太郎「紅梅振袖」
吉屋信子「鬼火」
内田百「とほぼえ」
岡本かの子「家霊」
岩野泡鳴「ぼんち」
島崎藤村「ある女の生涯」
久々に本格ミステリーを読んだら、探偵になって犯人を追及する夢を見てしまった。

パリのどんより冷たい灰色の冬のさなかに起こる殺人事件で、協調される「赤」色が、くっきりと印象に残る。

<帰国は近い。裁きは行われるだろう。心せよ I>

20年も前にスペインでレジスタンスに参加して行方不明となった男からの手紙が、届いた。
そして首なし死体から始まる連続殺人事件。

不気味な手紙、現場に残る小さな謎たち、登場人物たち同士の旧い因縁と現在の関係、不可解な行動。様々な人物による幾通りもの推理。
うっとりするようなミステリーの材料だ。

食前酒「アプリチフ」
不在証明「アリビ」
簡単な生活「ラ・ヴィ・サンプル」

とか、ところどころにフランス語のルビがふられているのが異国情緒を高める。

犯人探しだけでなく、正体を伏せていた人物の過去や、20年前の事件の真相も明らかになったり、と、盛り沢山で嬉しい。

また、こうした推理小説としての愉しみ以外に、この作品には、現象学を学ぶ風変わりな探偵役の青年、矢吹駆と、その哲学が出てくる。
この作品は、連合赤軍事件によって体現されたテロリズムの意味を読み解くために書かれたとか。
「テロルの現象学」という同著者の評論で書かれたことが、ミステリーで表現されているようだ。

まず、現象学とは。
事件に対する論理的な説明ができたとしても、それが正解とは限らない。
論理的な説明は、何通りもできる。
その中から正しい答えを選ぶのは、人間の本質的直感を使えばよい、という。

本質的直感とは、人間が無自覚に日常的に働かせている、対象を認識するための機構。
例えば、円周率なんて知らなくても、「円」と「円じゃないもの」を判別できるのは、判別のための基準 = 「円の本質」をみんな知っているから。
これを、どう殺人事件の推理に当てはめるか?というあたりは、ちょっと無理やりっぽいのだが、「へぇ~」と思う新しさがある。

そして、この作品の殺人事件は、「観念による殺人」であった。
殺人には2つのタイプがあり、金や嫉妬や地位保全などの物質的欲望の充足と、個体の死を延ばそうとする自己保存本能によるもの。よくあるのはこちら。
もう1つが、観念による殺人。
人間よりもっと高い価値のために、神や、正義や、倫理のための殺人。
たとえば、「他の生物を無用に殺さない」という宗教の教えが浸透している男が、たかだか40億の人類のために、その万倍、億倍の生命が失われる事を知り、人類を滅ぼそうとする。これが観念の殺人。
それは善なのか?悪なのか?

最後に行われる、観念の殺人を行った犯人と、駆の、思想の対決。
駆は、犯人の思想に非常に共感はするものの、でも最後のところでそれは間違っている、と反駁する。そのコトバこそが、著者がこの本であらわしたかった思想なのだと思う。
暗く冷たく、でも最後には人を信じようとする、ユニークな思想を持つ駆。彼にまた会いたいという読後感で終わる。
本作はシリーズ第一作らしく、つづきがあるようなので、あとの楽しみができた。
本屋さんをぶらぶらして、知らない作家に手を出すときは、タイトルとオビと裏表紙のあらすじを見て決める。

"「女になんか生れるんじゃなかった」と思っているあなたに、ぜひ読んでほしいミステリー"
"本屋大賞2位作家"
というオビの文句と、探偵役が整体師という設定が面白そうだったので買ってみたが、盛り上がりに欠け、いまいちのめりこめず。

●一人暮らしを始めたOLの梨花子は、優等生でいい子ちゃん。手紙を開けられた跡があるなど、ストーカーの気配を感じ、おびえる。
アパートの両隣は、だらしなかったり、ハッキリものを言ったり、梨花子と違うタイプの女性で、どうも合わないし、職場で孤立したり、ストーカーに狙われたり、不穏な気配の日々が続く。

結局、それらの原因は、梨花子にもあり、事件が、というより梨花子の心が、解決へと向かうきっかけのシーンとして、整体師に「あなたは臆病だ」という旨の事を言われるくだりがあり、そこは印象的だった。

自分の身を守るために臆病であることは悪いことではないが、臆病であれば誰かが守ってくれる、と思い込む事は悪いことだ、と言う。
女性の中には、臆病であれば世界が自分を守ってくれると信じている人がいるが、臆病でも無鉄砲でも他人が守ってあげることはできない。
守られたい女や、女を自分の檻に閉じ込めたい男がつくった価値観や物語の罠にひっかかってはいけない、と。

女だからというわけではないが、私は、自分がいい歳してるくせに、まだ誰かが守ってくれる子供であるような気が時々していて、このくだりにちょっと胸をつかれた。

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