日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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大好きなムーミンの作者の短編集。
ムーミンの世界に流れる自然や人(人じゃないけど)の何とも言えないコミカルでシュールで皮肉もあって愛すべき感じ、自然の描写は美しく細かく、人の気持ちは直截的でなく圧縮されたような描かれ方、が、どの短編にもつまっていて、いつまでも読んでいたい。

彫刻家の父と画家の母を持ち、自らも画家であり作家。芸術一家での島暮らし、大人になってからも1周数分の電気も水道も無い小さな島に住み、おそらく島の自然をこよなく愛し、観察したのだろう。

「島」や「嵐」の話も多い。海辺の嵐を魂が震えるような喜びで楽しんでいたレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を思い出す。その名も「嵐」という短編ではひたすらずっと嵐の描写、それと主人公の女性の心理が混ざった描写にひきこまれる、終わり方も美しい。激しい嵐の後のこの2行がなんとも静かで美しくて好き。
"翌朝の七時頃、嵐がやんで雪が街に落ちてきて、街路にも屋根にも彼女の寝室にも降りつもる。彼女がめざめると、寝室はどこまでも白く、すばらしく美しかった。"

祖母の時間間隔が狂っていくのを嘆く青年の「時間の感覚」も面白い。飛行機の中から眺める北極の夜が美しいシーンもいい。「北極、魔法の子午線、ノームの夜」というつぶやきがあるが、ただ名詞や地名に「の夜」をつけただけの組み合わせで、こんなに美しいつぶやきになるんだ、と。

「植物園」に出てくる、野原の描写も美しい。
現在の植物園の睡蓮の水槽と、過去の嵐によって水びたしになった野原の記憶が混ざり合って、
"素足に柔らかく弾む土の感触を、睡蓮のやさしい肌ざわりを味わう・・・"
という箇所が何とも言えない。
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須賀敦子の書評で興味を持って、購入。須賀敦子はこの本の訳も手掛けている。

家族が長い間につむいだ、どうでもいい出来事や繰り返した会話、口癖。
叔父さん、おばあさん、「なんというロバだ!」と家族をたびたび「ロバ」呼ばわりする父親の口癖、明るい母親のとりとめのない会話。

そんなものは、その家族以外には何の意味もない、興味を持てるはずがないのだが、でもそれをあまりにみずみずしく繰り返しインプットされると、何となくその一員になったかのように、それらの出来事や会話が身近になり愛着を持ってしまう。
このみずみずしさは、名訳によるところも大きい。

戦争やユダヤ人の迫害の時代を迎えるが、その時代にも書き方は変わらない。
筆は、ちっともドラマチックにならないし、戦争に対する悲しさや憤りも、表面的には全く書かれない。
流刑になったり逮捕されたり悲惨な事もあり、恐ろしい目にあっているのに、家族の会話は、同じように続く。
それが、静かに感動をよぶ。それは、あらすじではなく、会話の一つ一つを丁寧に読んでいかないと、わいてこない感動。

また、こんなに普通の毎日で、でも戦争はこの時起きてたんだ、普通の毎日の続きにいともたやすく戦争は起こるんだ、という怖さを感じた。



冒頭にあるこのメッセージを読んでからこの小説を読むと、なおいっそう、一つ一つの他愛もないやりとりが、いとおしく感じられる。

『私たちは五人兄弟である。いまはそれぞれが離れたところに住んでいる。なかには外国にいるものもある。たがいに文通することもほとんどない。たまに会っても、相手の話をゆっくり聞くこともなく無関心でさえある。けれど、あることばをひとつ、それだけ言えばすべて事足りる。ことばひとつ、言いまわしのひとつで充分なのである。あの遠い昔のことば、何度も何度も口にした、あの子供のころのことばで、すべてがもと通りになるのだ。「われわれはベルガモまでピクニックに来たわけではなァい」あるいは「硫酸のにおいはなんのにおい?」というだけで、私たちの昔のつながりが、これらのことばや言いまわしに付着した私たちの幼年時代や青春が、たちまちよみがえる。(中略)それは(中略)いまはもうどこにも存在しないあるいのちの共同体の証しなのである。これらの言いまわしは、私たちの家族のまとまりの大切な土台であり、私たちが生きているかぎり、地球上のあちこちでたえずよみがえり、新しい生を享けて生き続けるだろう。それがどこのどういう場所であろうと、だれかが「敬愛するリップマンさん」といえば、私たちの耳には、あの父のいら立った声がひびきわたるだろう。「その話ならもうたくさんだ。何度聞いたかわからん」』
須賀敦子が著書の中で絶賛していたので、読んでみようかと思ったが、かなり読みづらくて、なかなか終わらなかった。

1665年にロンドンにペストが蔓延し、市民の1/6が亡くなった大惨事を、体験者から話を聞き、当時の「死亡週報」などを念入りに調べ、小説化したもの。
著者は、「ロビンソン・クルーソー」のデフォーだが、まったく趣が異なっており、小説というよりは、調べた事実を述べたドキュメンタリー様のもの。

当時はまだペスト菌の存在もわからず、人々が死の恐怖におびえ、騒いでいる様子を淡々と描いた名著らしいが、どうも言い回しがくどい感じがして、私はあまりハマれなかった。

体に腫脹ができた男が、医者にそれをつぶそうとかけられた腐食剤で焼けただれ、痛みのあまりなのか、ひょうきんな格好で踊ったり歌ったりしながら走ってゆくシーンがあるのだが、その前にはいちいち、

「この男の姿ほど、(略)われわれの魂に深刻な印象を与えたものはほかにないといってよかった。いや、この男ほど、われわれに痛烈無残な衝撃を与えたものはほかにはないといっても過言ではなかった。」

というような表現が続いて、それが毎回同じような内容なので、ちょっと飽きてしまった。

また、
「だが、これについては然るべき箇所において話すつもりである」
「この問題はまたあとで取り上げるつもりである」
「このことについてはやがて話をしたいと思う」
という描写が多く、それがどこで出てきたのかわからなかったので、話が途中で切られた感じがして、集中できなかった。


"ウォッチメイカー"と名乗る連続殺人犯。
被害者の脇には、アンティークの時計が置かれ、被害者は自分の死に至るまでの時間を、その時計で思い知らされながら死んでいったと思われる。

なんか既視感を感じる、と思ったら、この本はリンカーン・ライムというニューヨーク市警の科学捜査顧問とその同僚たちの活躍を描いたシリーズ第7弾で、1作目の「ボーン・コレクター」を映画で見たことがあるのだった。

用心深い犯人が現場に残したわずかな手がかりを元に、ライム率いるプロフェッショナル集団が、緻密な捜査と推理で犯人を追い詰めてゆく過程はたまらなく面白い。犯人の冷酷無比な異常っぷりをこれだけ上手にかけるのもすごい。
それだけでなく、物語には、何度もどんでん返しがある。
そのくるりっと返る瞬間がまた見事。

今作でシリーズ初登場という、尋問のプロ、キャサリン・ダンスの登場やその仕事ぶりも鮮やかで快感。キネシクスの専門家という彼女は、証人や容疑者のボディランゲージや言葉遣いを観察し、分析する。それはカンというようなあやふやなものではなく、立派な科学で、彼女の説明を聞くと、自分にもできるんじゃないかと思えてしまうくらい、その観察や分析は論理的なのが面白い。

物語が感動するとか、深く心に残るという類の本でないので、再読はしないかもしれない。
200年も前に書かれた話で、ミステリーの原点となっている点はすごいと思うが、原点となっているだけあって、類似する作品をどこかで読んでしまっており、そのためか期待したより感動が薄かった。また、どこか古臭い感じで飽きる。ラインナップは豪華。名探偵と助手の元祖であるデュパンの活躍を描いた「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」「マリー・ロージェの謎」がまとめて読めるのは嬉しい。結論だけ聞くと奇跡のような推理で名探偵が謎をとく時。そこには緻密な観察と分析が一つ一つ正しく並んでいる。それらをじっくり味わえるのが醍醐味。

200年も前に書かれた話で、ミステリーの原点となっている点はすごいと思うが、原点となっているだけあって、類似する作品をどこかで読んでしまっており、そのためか期待したより感動が薄かった。

名作集と銘打ってるだけあって、ラインナップは豪華。
「名探偵と助手モノ」の元祖である、デュパンの活躍を描いた「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」「マリー・ロージェの謎」がまとめて読めるのは嬉しい。
結論だけ聞くと奇跡のような推理で名探偵が謎をとく時。そこには緻密な観察と分析が一つ一つ正しく並んでいる。それらをじっくり味わえるのが醍醐味。

「黒猫」「アシャー館の崩壊」など、単純な怪談の怖さではなく、幻想とリアルの間ギリギリの怖い感じを初めて世に出したのがこの人だというなら、やはりすごいと思う。
科学知識の単なる羅列ではなく、科学をフィクションとして楽しめる名作。

月で、宇宙服を来た死体が発見され、それは5万年前のものと判明。
人類に恐ろしく似た彼は、何者で、どこから来たのか?

今世紀最大の発見に世の中は騒然とし、軍と科学者たちは総力をあげてその謎に挑む。
生物学者は進化論、月理学者は月面を分析、言語学者は遺品の文字を解読、といった様々な調査結果から出てくる矛盾。それを解決するひらめき。あらゆる材料を集め、仮説をたて、検証する。読み手は科学者たちの貪欲な真実探求欲に同調してしまい、新たな事実やひらめきに興奮しながら読むのが楽しい。
人はいつでも謎をとかずにはいられない生き物らしい。

あらかたが明らかになったと思ったとき。
最初から提示されていた根本的な謎に、ラストで改めて与えられる解答。
そこへの筋道も、起承転結がハッキリしていて上手。解答の内容にも強いメッセージ性があって充実した読後感。

ほんのわずかしか登場しないコリエルというキャラがよい。ナイスなタフガイ、と読者に好感を持たせておいて、ある重要な役割をさらり与える。このキャラの使い方がニクい。

続編が出ているようなので、探してみたい。


タイトルの通り、ノーベル賞受賞者である、マリス博士が、ユーモアたっぷりに奇想天外な人生について語る本。
奇想天外なのは、人生というより、マリス博士だ。
タイトルは、「奇想天外なマリス博士の人生」でもいいと思う。

マリス博士がノーベル化学賞を受賞したのは、DNAの特定の部位を短時間で大量に作る技術(PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法)を発明したから。
この技術については、「生物と無生物のあいだ」に書かれていた説明がわかりやすい。

DNAの研究を進める上で、たくさんのDNAを簡単に作る技術は必須だったが、なかなか発明されなかった。
それを、画期的な方法で発明したのがマリス博士だ。
それも恋人と夜中にドライブしている最中に思いついたという伝説つき。

博士は、サーファーで、女好きで、奥さんは4人目で、LSDの体験も赤裸々に語るし、どこかの研究室に教授としておさまることもなく、とても自由な人だ。
その博士が、身の回りの出来事をつれづれに語った本。
1本の筋が通った何かを訴えるようなものではなく、つれづれでまとまりがないが、そのどれもがとてもユーモラスで、面白い。
それは、あるがままを書いてあって、また、博士の好奇心が旺盛で、興味を持って考えた事に対して、緻密で深い考察を書くから。
女性関係もすとんと正直に書いてあって面白い。たとえば、2人目の妻との別れについて。
『しかし結局、彼女は私を棄てて出ていってしまった。まあ、どこにでもある話だし、このこと自体はそれほど気にしていない。しかし当時は事態をのみこむのに三ヶ月を要した。』

博士は、子供の頃から寛大な母親の元で、危険な実験を繰り返していた。
クリスマスプレゼントに選んだ化学実験セットや、地元の薬局で買い揃えた材料で火薬作って爆発させたり。
『試験管が割れ、突然、大音響とともに炸裂した。こいつはすごいや。私は七歳だった。実際、そのとき何が起こったのかは分からなかった。でも、サイエンスとはおもしろくなきゃいけない、ということが分かった。』
この時にわかったことを、博士は今でも実践している。
科学を、とても楽しんでいる。
人生も楽しんでいる。

私は化学の道を志して大学に行ったものの、「何でみんな休みもつぶして夜遅くまで実験しているんだろう?」と疑問に思って挫折したけれど、それは化学を楽しんでいなかったから。
博士の楽しみ方は、すごくうらやましい。
十五少年漂流記が面白かったので、そういえばウチにはもう1冊、ヴェルヌ作品があったな、と思い出して読んでみた。
これも、面白い!

冒険小説を書かせたら、ヴェルヌは天下一品。
100年以上にわたって愛読されているだけの事はある
1872年10月2日午後8時45分。
ロンドンの紳士、フィリアス・フォッグ氏が、世界一周の旅に出た。
彼は、緻密な計算をし、列車や船の遅れも計算に入れた上で、80日間で世界を一周できると断言し、実践してみせる事になる。
その実行に全財産を賭ける。もし1秒でも遅れたら全財産を失う羽目になる約束をする。

時刻表を手に、船と電車を乗り継ぎ、旅を続ける氏と、陽気で人の好い従者のパスパルトゥー。
当然、順風満帆な旅になるワケなく、次から次へと予定外の出来事が起こり、大金をはたいてあらゆる対処をするのだが・・・・?
どうなるの、どうなるの!?とページをめくらされるドキドキが最後まで続く。
これぞ、THE・冒険小説。

主人公フィリアス・フォッグ氏のキャラクターに好感。
寡黙で、機械のように落ち着いていて、正確無比。
一行に襲いかかる事件に、冷静に対処し、船や電車のみならず、馬車とか象とかソリとか、その場その場で考えられるベストな乗り物を手に入れ、旅を進める。
一見、何を考えているかわからず冷血に見えるけれど、実際は寛容で女性や弱いものにやさしく、困っている人を決して見過ごさないジェントルマン。
旅の途中、インドで、理不尽に殺されようとしている婦人を救おうとする。そのロスで、決定的に旅が遅れるとわかっていても。

この本に出てくる、世界各地の情景は、この時代の未刊・既刊の旅行記を版画と共に収録した「世界一周」という雑誌が元になっているらしい。
今よりもっと世界が分かれていたころの、各地の文化や風習を垣間見えるのも楽しい。

最後に、主人公がこの長旅で獲得したものはほとんど何もない、とし、しかし、
「そもそも人は、得られるものがもっと少なかったとしても、世界一周の旅に出かけるのではなかろうか。」
と結んで終わる。
いやー、この冒険譚は、理屈抜きで「楽しい!面白い!」と思ってしまう。

子供心に一度は夢見るような、無人島で子供達だけのサバイバル生活。
たとえば、島の地図をつくる。
洞穴を改造して住み心地をよくする。窓をあける。広間や台所をつくる。
野生の植物を採ったり、動物を狩ったりする食生活。
いかだで川を下る、ボートで湖を移動する。
川や岬や湾に、自分達で好きな名前をつける。

子供の頃にあこがれた生活が、ここにある。


実際に子供の頃の私が、イヤ今の私でも、こんな目に遭ったら、楽しむ余裕も無いだろうけれど。
まず、動物を自分で狩って皮を剥ぎ、その肉を料理することがムリだ。
電気もガスも無いところの生活なんて3日と、もつまい。

そういう現実的なところは考えずに、無責任に、自分もここに居たらなあ、と想像して楽しむのがよい。

ニュージーランドの寄宿学校に通う、イギリス人・フランス人・アメリカ人の少年達。
休み中に船旅をするステキな計画があったのだが、不慮の事故で、少年達だけが乗り込んだ状態で、船が嵐の中に流されてしまい、15人の少年と1匹の犬は、無人島に漂着する。

最年長でも14歳という子供だけの集団だが、船に残った食料や武器や道具を活用し、島で生き延びる工夫をあみだし、さまざまな困難に立ち向かう。
利発で年下の子たちに優しいブリアン。ブリアンに対抗意識を燃やし、トラブルの元となる、いばりたがりの秀才のドノバン。穏やかで思慮深い最年長のゴードン。料理が得意な黒人のボーイ、モーコー。食いしん坊のコスター。などなど、15人の少年のキャラクターの人物像もなかなか面白い。

男の子ばっかり、というのがまたよい。
ここに女の子が登場したり、恋愛が芽生えたりすると、また雰囲気が違ってしまうだろう。
男の子たちだけで、時にやんちゃに、ワガママに、けれど勇気と友情、勤勉、思慮、熱心を発揮して、困難を乗り越えるところが、いいんだよなー。

少年たちは無事に故郷に帰りつけるのか?
島に流れ着き、さまざまなトライ&エラーで島で生活する方法を確立していき、それも落ち着いてきた終盤に、小さな事件から大きな事件が発生し、クライマックスを迎えて、ラスト、という話の流れも、王道だけど、上手な展開。


同じようなストーリーで、ウィリアム・ゴールディングの「蝿の王 (新潮文庫)」がある。
こっちは全く趣が違って、だんだん少年たちが狂気におかされる、というか本能があらわになるというか、息詰まるような展開でイヤ~な感じ。
個人的には「十五少年~」のような読後がさわやかなのが好きなんだが、対比的に「蝿の王」を読み返したくなってきた。

ゴーギャンをモデルにした、架空の画家チャールズ・ストリックランドについて、主人公「私」が、見聞きしたことを述べる伝記形式の小説。
この「私」も、著者モームがモデルの架空の人物。
半分事実、半分創作の物語だが、いかにもノンフィクションのように、参考とした本や論文が脚注に書かれたりして面白い。

イギリスで作家活動をしていた「私」は、その夫人を通じて、ストリックランドに出会う。
株屋をしていた彼は、突然、家族を捨てて、パリへ去ってしまう。
夫人に頼まれ、出奔の理由を探りに行くと、「絵をかきたかったから」だという。

「描かなくちゃならないんだ」
「どうしても描かなくちゃならないんだ」
「どうしても描かなくちゃならないんだと言っているじゃないか。自分だってどうにもならないんだ。水に落ちたらうまく泳ごうと下手に泳ごうと泳ぎ方なんか問題じゃない。とにかく水からでなくちゃならないいんだ、さもなけりゃ溺れてしまうだけだ」

口下手であまり自分の事をきちんと説明できない彼が、最初に「私」に見せた、狂気とも言える情熱。

ストリックランドには良識も慈悲もなく、利己的で関わった人々を平気でひどいめに遭わせる。
自らも、贅沢な生活や人からの評判には全く興味がなく、ボロボロのアパートで貧しい生活をしたり、世間に何と言われてもを何とも思わない。ただひたすら絵が描ければよいのだ。
描き終わった絵にすら、興味が無い。彼にとっては描くことが全て。

この情熱によって、「私」をはじめ、何人もの人が、彼に魅了されてしまう。
ふつうの人は持てない情熱を、彼が持っているからだろうか?

幸か不幸か、私はそこまで悪魔的に情熱を傾けるモノには、まだ出会っておらず、平凡で物質的にある程度満ち足りた幸せな毎日を遅れているが、それに出会ってしまったストリックランドは世間でいう人並な幸せを投げ捨てて絵を描く事を選ぶ。

『自分が一番欲していることをなし、気に入った条件の下に、心おだやかに暮らすことが、一生を台なしにすることだろうか?そして年に一万ポンドの収入があり、美人の妻を持つ著名な外科医になることが成功であろうか?それは各自が人生に対していかなる意義を感じているかによるだろうし、社会に対していかなる権利を認めているかによるし、各自の要求いかんにもよるだろう。』

六ペンスは英国の銀貨の中で最低額。
口語でわずかなもの、くだらいないもの、を示す。
同じ丸くて銀色の高貴な月と対比させたタイトル。
ストリックランドが得たものは、月と六ペンス、どちらなのか?

するする読めてぐいぐいとのめり込んでしまうのは、ストリックランドの奇人ぶり、けれど芸術に対する情熱に惹かれるのと、「私」が出会う人々をするどい観察でいちいち外見や行動を分析して描写するのが面白いからでもある。

ストリックランドの元夫人が、元夫に対して援助してもよいという言葉に対して。
「しかし、その申し出を促したものは親切心ではないのだ、私にはわかっていた。苦悩は性格を気高くするというが、あれはうそだ。幸福が性格を気高くすることは時々あるが、苦労は大抵の場合、人間をけちに、執念深くさせるものである。」

この「私」が、少ない時間ではあるがストリックランドと共に過ごした時間や、彼を知っている人からの情報を、分析し、希代の画家について述べるのが面白くないわけない。


ストリックランドが最後に探し当て辿り着いた彼の楽園、タヒチ。
「私」も彼の死後、その島を訪れる。
この島のねっとりとした色の濃い描写がいかにも熱帯の楽園ぽくて、うっとりとする。タヒチ行きたい。

ストリックランドが最後に過ごした家の描写。彼はここで思う存分絵を描いて暮らしていた。
「全世界からぽつんとかけ離れた一つの隅っこ、頭上には青空があり、豊かな木々がうっそうと茂っている。ふんだんな色彩の饗宴でした。しかもあたりはかぐわしく、涼しい」
「物音一つしない美しい夜。夜の白い花の香りがただよう」


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