日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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文:◎

古代中国を舞台にした6つの短編。
いずれも、ちょっと幻想的で、ミステリアスな物語。この作者の静かな文体がよく似合っている。

1つ1つの物語のストーリーがすごく面白いかというと、そうでもないのだが、淡々とした穏やかな、でも清潔な色気のある雰囲気が好きで、再読してしまう。

何が色気かというと、どの話にも、ひどく魅力的な女性が出てきて、その描写がとても美しい。
漢字の使い方がとてもうまいなあ、と感心する。

女性の裸体についての描写は・・・
『女は息を呑むような美しさであった。窈(くら)さの底に横たわった全身から虹が立つようにみえた。』だとか。
『女の首が皎(しろ)く浮いた。』だとか。

ラブシーンはこんな感じ。
『淡いかおりが妻の領(えり)のあたりから立っている。そのかおりに添うように疾は妻の胸に手をいれた。
「あ、主よ」
妻は領のうえから疾の手をおさえた。そのしぐさにも夭々(ようよう)たるかおりがうしなわれていない。』

月夜に水浴する女性については、
『月光のせいであろうか、女の肌はこの世ならぬ美しさで、光って落ちる水滴は真珠のようにみえた。』

女性の髪については、
『月光が音をたててながれたかとおもったのは、髪がゆれたせいであった。』
だとか、だとか。

これが私と同じ「人間の女」というカテゴリに属する生き物なんだろうか!?と思うような美しさ。かなり大げさな描写だが、ずっとこんなのが続くワケではなく、大体がマジメな雰囲気の中に、ぽうっと光るようにこういう描写が潜むところがよい。

また、途中、こんな漢詩が出てくる。

桃の夭々(ようよう)たる灼々(しゃくしゃく)たるその華、この子ここに帰(とつ)げば、その室家(しっか)に宜しからん

『十五歳くらいの、美しさに艶がくわわろうとする少女』をうたった詩だが、この詩は、そういえば、「「サヨナラ」ダケガ人生カ―漢詩七五訳に遊ぶ」で読んだなあ、と再会をなつかしんだ。とても可愛らしくてメデたい感じがよくて気に入った詩の1つだった。
こういう本の世界での再会は、なにげに嬉しい。
全文は下記のとおり。

桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼(しゃくしゃく)たる 其の華
之(こ)の子于(ここ)に帰(とつ)ぐ
其の室家(しっか)に宜しからん

桃の夭夭たる
有(また)賁(ふん)たり其の実
之の子于に帰ぐ
其の家室(かしつ)に宜しからん

桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁(しんしん)たり
之の子于に帰ぐ
其の家人(かしつ)に宜しからん
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文:◎、キャラ:◎、ストーリー:◎

・・・・感動。
人が、こうも見事に生きられるものだろうか?
古代中国、斉の国の名宰相とうたわれた晏嬰の物語である。

あとがきに、
『歴史小説は感動を書くものだといわれる。
そうだとすれば、自分の魂をゆさぶった人物を書くべきであろう。
わたしにとって晏嬰はまさにそのひとりであった。』
と書いてあるが、著者の感じた魂のゆさぶちは、たしかにこの本を通じて受け取れる。
見事な生き方、そしてそれを見事に描写した、傑作、である。

古代中国、春秋時代。
大小さまざまな国が群雄割拠し、国同士の外交あり、戦あり、国の中でも大臣同士の殺し合いやクーデターもしばしば、という慌しい時代に、どんな権力にも暴力にも屈せず、正しくNOを言い続けた清廉な人物で、その芯のとおった清々しさは、すばらしく心地好い読後感を与える。

春秋左氏伝、晏子春秋、史記、といった史料が元になっているようだが、それらの書に、晏嬰の人生がこうも詳細に書いてあるワケではないだろう。その史料に向き合い、感じた感動をあらわせるような生き生きとしたエピソードをつくりあげ、書き上げたトコロがすごい。

名場面をあげればキリがないが、晏嬰が、「君主からもらった褒美を辞退する理由」もその一つ。

過大な欲は身を滅ぼす、という。
富には適切な幅があり、それをこえるとかえって不便・不幸になる。
利の幅を守っていれば災いにかからない、だから辞退する、と言う。

しかし、人の幅とは、境遇や身分で変わるもので、天から定められた絶対の幅を見極められるのは億人に一人だろう、と著者は書き、晏嬰はそれに当たっている、と書く。


前半は、晏嬰の父、晏弱の物語で、これもまた、面白い。
賢く、機知に富み、戦の天才。
この父親が、隣国を攻めて見事傘下に収める逸話、敵との頭脳戦あり、剣を交えた戦い以外の活躍もあり、スペクタクルで痛快。

晏弱は、奇抜な戦法をいったいどこから思いつくのか?という疑問に対して、晏弱の部下が語る。
同じ場所を攻めた前回、晏弱は将軍ではない立場だったが、もし自分が将軍だったらどう攻めるか?と考えていただろう、と。

『ある立場にいる人は、その立場でしかものをみたい。が、意識のなかで立場をかえてみると、おもいがけないものがみえる。それを憶えておき、いつか役立たせるということである。』

たくわえてきた記憶は、その機会がきたとき、時のたすけを得て、知恵にかわっている、その知恵が、晏弱には豊富にそなわっている、ということ。
ははあ、勉強に、なります。


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