日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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須賀敦子の書評で興味を持って、購入。須賀敦子はこの本の訳も手掛けている。

家族が長い間につむいだ、どうでもいい出来事や繰り返した会話、口癖。
叔父さん、おばあさん、「なんというロバだ!」と家族をたびたび「ロバ」呼ばわりする父親の口癖、明るい母親のとりとめのない会話。

そんなものは、その家族以外には何の意味もない、興味を持てるはずがないのだが、でもそれをあまりにみずみずしく繰り返しインプットされると、何となくその一員になったかのように、それらの出来事や会話が身近になり愛着を持ってしまう。
このみずみずしさは、名訳によるところも大きい。

戦争やユダヤ人の迫害の時代を迎えるが、その時代にも書き方は変わらない。
筆は、ちっともドラマチックにならないし、戦争に対する悲しさや憤りも、表面的には全く書かれない。
流刑になったり逮捕されたり悲惨な事もあり、恐ろしい目にあっているのに、家族の会話は、同じように続く。
それが、静かに感動をよぶ。それは、あらすじではなく、会話の一つ一つを丁寧に読んでいかないと、わいてこない感動。

また、こんなに普通の毎日で、でも戦争はこの時起きてたんだ、普通の毎日の続きにいともたやすく戦争は起こるんだ、という怖さを感じた。



冒頭にあるこのメッセージを読んでからこの小説を読むと、なおいっそう、一つ一つの他愛もないやりとりが、いとおしく感じられる。

『私たちは五人兄弟である。いまはそれぞれが離れたところに住んでいる。なかには外国にいるものもある。たがいに文通することもほとんどない。たまに会っても、相手の話をゆっくり聞くこともなく無関心でさえある。けれど、あることばをひとつ、それだけ言えばすべて事足りる。ことばひとつ、言いまわしのひとつで充分なのである。あの遠い昔のことば、何度も何度も口にした、あの子供のころのことばで、すべてがもと通りになるのだ。「われわれはベルガモまでピクニックに来たわけではなァい」あるいは「硫酸のにおいはなんのにおい?」というだけで、私たちの昔のつながりが、これらのことばや言いまわしに付着した私たちの幼年時代や青春が、たちまちよみがえる。(中略)それは(中略)いまはもうどこにも存在しないあるいのちの共同体の証しなのである。これらの言いまわしは、私たちの家族のまとまりの大切な土台であり、私たちが生きているかぎり、地球上のあちこちでたえずよみがえり、新しい生を享けて生き続けるだろう。それがどこのどういう場所であろうと、だれかが「敬愛するリップマンさん」といえば、私たちの耳には、あの父のいら立った声がひびきわたるだろう。「その話ならもうたくさんだ。何度聞いたかわからん」』
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