日々の読書

日々、つれづれなるままに読んだ本の、感想おきば
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「告白」に比べると、パンチ不足。読んでいる間は続きが気になって先を急ぎたくなるが、読み終わってみるとあまり印象に残らない。

高級住宅街に隣り合う遠藤家と高橋家。
背伸びしてここに一軒家を建てた遠藤家の一人娘は、私立中学受験に失敗し、毎晩のように癇癪を起こし、色々なものを投げつけたり暴言三昧、親はそんな娘を持て余している。高橋家はエリート医師に美人妻、家を出ている長男は医大生、同居する2人の姉弟はどちらも名門校に通う優等生。
この2家族と、近所に住む小島さと子。
物語は彼らの視点で進んでゆく。
2家族と、それを物見高く観察する小島さと子を交互にちりばめ、語らせ、物語を進めるという構成は面白い。

ある夜、高橋家で、妻が夫を殴って殺害するという事件が起きる。
何の問題もなさそうに見えた家庭で、何が起こったのか?
事件当日、姉は外泊しており、弟は事件以来、行方不明。
真相がわからないまま、様々な視点で、それぞれの家庭の物語が少しずつ語られる。

登場人物たちは、みんな問題がある。
みんな自分勝手だったり、事なかれ主義だったり、読んでいて腹立たしいシーンがいくつもあるが、全員、善人でもなければ悪人でもない。
それぞれ事情を抱え、それぞれができる精一杯をやって毎日を生きている至って普通の人たち。
そういう普通の家庭に起こりうる、問題を描いた作品、なんだろうか?

自分の都合しか考えていないと思っていた小島さと子についても、ラストでは見違えるような親切な態度で、それについて
「冷静に考えると、こちらが自分の知っている、ひばりヶ丘で一番頼りになる小島さんちのおばさんだった。」
と記述されている。
誰でも、悪意を持って人に接するわけではなく、それぞれの都合で生きていて、その都合によって、他人に良くできたり、できなかったりする、という事なのだろうか、と思った。


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日本各地のいわゆる奇祭を、著者は愛すべきトンマな祭「とんまつり」と名づけ、せっせと足を運んでは、どうかしている!と祭の模様をユーモラスな絵と、冷静なツッコミで紹介してくれる。
読みやすい文章だと思うのだが、何故か私のテンポに合わない感じで、祭そのものには興味が湧いたが、文章を読むのが途中から苦しくなってしまった。

原始の匂いが感じられる奇祭たちを、こういう形で紹介してくれるのは、ありがたい。
さすが名手、宮部みゆき。語りが巧い。
ややホラーな5つの短編がおさめられている。
人の弱さ、強さ、身勝手さ、妬み・・・を巧みに物語に織り交ぜてくるから、読んでいて自然に心が揺さぶられる。

最初の「雪娘」は、視覚的な印象が強い。雪が降り積もり真っ白な街、灰色の壁の無機質な場所に、赤いパーカと赤いマフラーの少女の遺体、という光景が目に浮かんでそれがずっと頭にある状態で読んだので、話がより寂しくうす寒く感じられ印象に残った。

「チヨ子」は何となく日本人形をイメージしていたが、実はウサギのぬいぐるみなのが、意外だった。前2編が人の弱さを描いて悲しい話なので、余計に「チヨ子」で描かれる人の強さは、心強くて励まされる。短いけれど、いい話だ。

幽霊騒ぎから発した噂の真相を確かめたいという娘を手伝う父親の話「いしまくら」は一番面白かった。因果応報を描いた「石枕」という昔話を持ち出し、日本人に根付いたこの考え方は次第に消えていっている、その代わりにひどい目に遭う人はそれなりの理由があるという考え方の浸透や、その背景を語り、さらに娘の偏った調査の仕方を見抜いたり、調査の結果が思わぬ真実を見つける所とか、この短さでここまで盛り込んでそれでいて面白さを保っているのは、さすが。

「聖痕」は神とか正しさなどがテーマで、短編で語るにはやや重いせいか、話が唐突で、物足りなさが残る。

ある日、ある町の住人がごっそり消滅する。
それは『町』と呼ばれる何らかの大きな意思によるもの。
管理局という国家組織はそれに対抗すべく、消滅について調査し、次の消滅を予測し、防ごうとする。

「消えた人々の事を悲しむと余滅が起こるため禁止」とか「消えた町の名前が入った書籍や書類は全て削除する」とか「消えた町に関わると汚染を受ける」とか、町の消滅というあり得ない現象について細部まで設定されている。
国に関しても、そこは日本のようで日本ではないようで、「西域」と呼ばれる外国や、西域の人々が暮らす「居留地」があり、居留地の民にはこれまた独特の掟やら文化があるのが垣間見える。
ここまで「ありそうでない」世界を作り上げるのはすごいが、細かく作り上げられた世界が、前に呼んだ短編集「バスジャック」だと楽しめたが、長編だと食傷気味になってしまった。

理不尽に突然大切な人を失った人々や、管理局に籍を置き町と壮絶な戦いをする人々のヒューマンドラマは実にドラマチックだが、登場人物たちの台詞や行動も、いかにも、という感じで飽きてしまうし、出てくる人同士があれよあれよという間に繋がる展開もややわざとらしくて楽しめなかった。
映画にもなった話題作。
続きが気になって気になって、一気に読んでしまった。

とある田舎の中学校で、終学式の後に担任の女教師が生徒たちに語りかけているのが始まり。
私の娘は事故死ではない、このクラスの生徒に殺された、と。


生徒達が毎日飲んでいる牛乳。
女教師の身の上話。
他クラスの男教師が女生徒に呼び出された話。

話はあちこちにとんで、とりとめがないように見えるのに、実はその1つ1つが大事な伏線。
語り口はあくまで淡々とし、それがもどかしくてイライラするが、最後に犯人に告げた内容で、静かさが怖さを引き立てる。
全て女教師のモノローグで、話を聞く生徒達の反応も教師の語りの中にしか出てこない。
衝撃的な告白に生徒達が騒ぐシーンも間接的にしか表されず、モノローグの穏やかさが、穏やかな怖さが一貫して乱れない。
こういう書き方、うまいと思う。

その後、生徒の1人、犯人、犯人の家族…とモノローグが続き、女教師の告白だけで十分物語が完成してると思ったのに、事件はさらに深掘りされ、さらに物語も進み新たな事件も起こってゆく。

が、読後感が悪いのと、読者を置いてけぼりにするようなクールな進み方で、再読したいとあまり思わない。

何度も読み返したいと思うのは、閉じてから、幸せとか人間の強さをしみじみ感じるような本だ。
この本はラストも後味が悪い。
物語としては、意外性があり、かつ、これまでの話も生かされたよいオチだが。


各モノローグを見ていくと、同じ出来事に対して各関係者が、全く違う感じ方をしているのが面白い。
ある人の行動の理由を「こうだ」と思ってそれを裏付けるような事実がいくつもあっても、当人のモノローグでは全く違う理由が書かれている。
そのズラし方はうまい書き方だと思った。
那由多、翠、淑子。
カトリック系女子高校に通う3人の少女の繊細な心の動きを細かい描写で丁寧に描いた作品。
3人それぞれが主人公となる、3編で構成される。


自分が口をつけたペットボトルから父親が飲むの見て「その茶には私の唾液まじってる…」と思うところとか、命がけで恋したり、自分を一人だと感じたり、誰かの一番になれない事を悲しんだり・・。

自分がかつて女子高生だったことがあるゆえに、女子高生ってこんなに感受性が強い不安定な生き物だっけ?と思い返してしまった。
カトリック系女子高校に通う3人の少女の物語、というと、川原泉の「笑う大天使(ミカエル)」もそうだが、まったく世界が違う。(※しごく大雑把で、でも心優しい3人のオチこぼれお嬢様たちの笑って泣ける名作マンガだ。)
自分が高校生だったころはどちらかというと「笑う大天使」に近かったような・・・。
同じ私立女子校モノでもえらい違いだ、と思った。

でも。がさつな私達にもこんな一面も確かにあった
どんな人にも、その年頃にはあるだろう、「少女らしい」一面を拡大、濃縮した雰囲気。
大人になると、忙しさにかまけてなのか、なかなかこういう事を考えたりしないなあ、とやや切なく懐かしくなった。

ストーリーとは直接は関係無い所に、長い描写がある。
その言葉はきれいだが、たとえば何かトラウマを抱えているらしい那由多は、何が原因でそんなに憂鬱なんだ?と理由さがしに一生懸命で文章を味わえなかった。
進みの遅さが退屈に感じてしまう。
それが物足りなくて、再読した。2回目の方が余裕をもって文章を楽しめる。
きれいな言葉たちのつながり方が不自然でぎこちない印象はあるが、そのつたなさも含めて繊細に思える。


『舌の奥にできる縒(よ)れた紙のように小さな白い固まり。私はこれが嫌いで、小さいころは白いカルピスを飲まなかった。(中略)カルピスを飲むと口に残る白い固まり。それが溶けだした歯の残滓のように思えて、私は身震いした。私は自分の体の硬い部分が好きだった。歯や爪。くるぶしの骨。そういうものに触れていると安心できた。』

『私たちはまるで、言葉を知ったばかりの幼児のように「どうして、どうして」と繰り返す。どうして夕焼けは血の色をしているの。どうして私たちは体液を分泌するの。どうして拒絶と許容の狭間で揺れ動く精神を持って生まれたの。』

『私は一人だ。(中略)誰も私を一番にはしない。先生も、なゆちゃんも中谷さんも。ついでに言えば成績だって容貌だってそうだ。私はいつも平凡な場所に一人でたたずんでいる。
(中略)
そして私は知ったのだ。結局のところ、本当に誰かの心を得られるのは一部の人間だけなのだ、と。私には友達がたくさんいる。笑いあっておしゃべりしたり、休日に楽しく買い物したりする相手は、中谷さんやなゆちゃんよりもたくさんいるだろう。塾に行けば男の子とも気軽に話して仲良くなれる。でもしれが一体なんだというのだろう。やはり私は、平凡な、大勢の中で生ぬるい温度のたゆたう名前もない一人にすぎない。(中略)心地よさに目を閉じた人々は、誰も私を求めない。』

世界が洪水になったら、箱舟にどんな動物を乗せるか?という質問に対して、「人間」と答えた翠。
周りの人と打ち解けようとしない翠の意外な回答。その理由は?と聞かれて、
『「他の動物と違って、言葉を使ってお互いに近づこうとするから」
開いたままだった手元の本を、栞を挟んでぱたりと閉じた。うまく言えない。残りの言葉は胸の内で続けた。でもそうやっていくら近づこうとしても、ふとした瞬間に一人になってしまう。だからよ。
言葉をいくら重ねても、果てしなく隔てられ交わることがない。でもだからこそ、どこかに逃げたいとは思わないのだ。どこに行っても同じだ。どこに行っても一人なら、せめて那由多のそばにいたい。届かない言葉が虚無となっていくら押し寄せようと、それでもまだ言葉を重ねたいと思える相手のそばにいたい。』

文庫の表紙の絵がとても綺麗だった。
昭和25年、金閣が寺僧の放火によって消失した事件を素材にした作品。

虚弱で吃り癖のある主人公は、幼い頃に父親から金閣の美しさを聞かされ、醜い自分へのコンプレックスと共に、極端な美へのこだわりを抱えて、生きる。
鹿苑寺の寺僧となり、金閣を目の当たりにしても、その美は彼の根底に根ざし、彼の行動を、心をしばる。

これ書いた人は、A型・山羊座でしょう~!と言いたくなるような、緻密で、妥協がなくて、完璧主義で・・・・読んでて窒息しそう。
全体的に、主人公の鬱屈した負のエネルギーが充満している。

いろんな出来事や、人との出会いで、様々に揺れながらも、終局へ向かう、止めようのない一直線な緊張感が疲れる。
主人公の偏執的な思考が、私にはどうも合わなくて、名作なのかもしれないが、とても読みづらかった。
この、美に対するちょっと特殊な感性は、肌に合わない人も多いだろう。
もう少し時間をおいて、また読んでみたい。

主人公が大学で出会う友人、柏木。
両足が奇形で、それ故に、独特な思想を持っていて、この青年の語る思想は、いちいち面白かった。

「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は、認識の武器を持ったのだと言おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ。」

柏木の思想は、主人公の負の鬱屈を開放しようとするが、結局はダメだった。

主人公と、この柏木、両方が、作者・三島の分身なのだろうか?
内面的にはちょっと怖いくらいに一途でアツいモノを持ち、けれど賢かったから、理論的には柏木のような考えをし、心の内の破滅に向かう衝動の行為を抑えていたのかしら?と思ってしまった。
ちょっと読みやすい軽めの本を、と集英社文庫に手を伸ばした。
「とにかく・・・・・・すごい本です。そうとしか言えません。」
というオビは、ちょっと大袈裟だが。しかし。面白かった事は面白かった。
「世にも奇妙な物語」のような、不条理で不思議な、ドラマっぽい7つの短編たち。

モノによっては、ブラックだったり、心温まるような、だったり。
奇抜な発想は共通して、ある。

例えば「二階扉をつけてください」では、出産で妻が実家に帰ったため一人暮らしの旦那が、「二階扉をつけるように」という回覧板を無視したため、近所のうるさいオバちゃんに怒鳴り込まれ、「二階扉」って何なんだろう、、と思いつつも言われるがままに業者に依頼して取り付ける話。
結局二階扉の正体は明らかにはされないのだが、なんとなくわかってくるその使い道。
音だけでわかるブラックなオチ・・・・。

不条理でブラックだなーと思って読み進めると、不条理な不思議バナシは他もそうだが、ブラックなのは最初のコレだけだった。


表題の「バスジャック」は、
『今、「バスジャック」がブームである。』
というワケのわからない一文から始まる。
あまりのブームに、バスジャック規正法もあるし、ルールも定型もあり、観客もバスジャックを見る目が肥えてくるし、バスジャックを期待して高速バスの人気があがっている、そんな世になっている。
かくいう主人公の乗っているバスも、バスジャックが発生し、乗客は期待のまなざしでバスジャック犯を見つめる。
乗客とバスジャック犯のやりとりがテンポよく、このテンポが止まる事なく一気にラストへ向かい、勢いのあるまま快い切れで終わる。


「送りの夏」は、泣けた。

12歳の麻美は、小学校の夏休みに、失踪した母を捜して海辺の町へやってくる。
母は、その町に居た。
「直樹さん」と呼ぶ男性と共に。しかし、男性は車椅子にのり、微笑のまま動かない。
その建物には、動かないマネキンのような大切な人と暮らす何組かの家族が暮らしている。
母は割とあっさり麻美を迎え入れ、動かない人々が何者かと思いつつも、麻美もそこでしばらく暮らすことに。

この物語は、何か、夏の海辺でないと、ダメだな。
夏の海の昼と夜がよく似合う。
私の好きな夏の描写がたくさんあってそれだけでも楽しい。

強い日差し、陽炎、周囲の山々からの蝉の声、潮の香りと山の匂いと草いきれを含んだ熱い夏の大気。
丸みを帯びた石が広がる磯浜で、真っ白な石を拾って、日の当たる側とそうでない側を交互に頬にあてて暑さと冷たさを交互に味わうとか、海にそれを投げて「とぼん」と間の抜けた音で沈むとか、冷たい麦茶とか。
満月がさえぎる雲もなくあまたを照らし、水面が光を千々に切り分けてるとか。

物語のテーマは、生と死、続くと思っていた愛しい人との日常が終わった時の受け入れ方、という感じなのだが、それに紐づいて描かれた、夫婦や親子の在り方というものが面白かった。

この先はちょっとネタバレあり。

愛し合って結婚した夫婦が、しかし、その愛がずっと変わらず続くわけではないと思う麻美。
「好きになって、結婚して、暮らしていくって、どんな感じなのかなあ」
という疑問に、ある人は、
「今日の次に明日が来るように」「続けていくものではなくて、続いていくものなんだよ」
と言い、60年連れ添った老人は、60年はあっという間でむしろ短いと言い、
「長くなればなるほど、一緒にいた時間なんて、あっという間に思えてくるもの」

父親は、家族の元を去り、他の男と一緒にいる母親を見ても動じない。
「『信じてる』ってコトバを使って逆に相手を束縛したり、夫婦っていうコトバで互いのやるべきことを見失うのはやめよう」
と母親と結婚するときに誓ったからだ。
「お父さんとお母さんは互いに夫婦だ。だけどね、互いのすべてをわかり合うことはできないし、わかる必要もないんじゃないかって(略)思ってる。わからないままでも、わからない部分を含めてお母さんのことを好きだし、守っていきたいし、一緒にいたいんだよ」
この思想は、立派すぎて、そりゃそうだ・・・、としか言えないが、真理だなーと思う。

「信じるっていうのは、お父さんからの一方的な気持ちの押し付けだ。こうあってほしいっていう身勝手なものだね。信頼するっていうのはそれとは違う。互いの存在や、考えていること、やろうとしていることを認め合える関係のことなんだよ。お父さんは、お母さんとそんな関係でいたいと思う」
信じると信頼するの違いは、これは単なるコトバの定義でしかないけれど、誰かをずっと一緒に長くいたかったら、やっぱり存在まるごと認め、ここでいう「信頼する」気持ちにならないといけないんだろう。

この父親の言葉を、娘の麻美は、わからないとしながらも、最後に母親にこう言っているって事は、根本的には理解し、母親を信頼したことになるのでは。

「わかんないけど、お母さんのやろうとしてることが、今しかできない、お母さんにしかできないことだったら、がんばって」


他に、「しあわせな光」「二人の記憶」「雨降る夜に」「動物園」を収録。

「動物園」もちょっと奇抜な発想が面白かった。
文庫派の私にしては珍しくハードカバー。
いつだったか実家に戻ったときに、母上から進呈されたものに、やっと着手。重くて持ち歩けないから、就寝前のひとときに。

そんな夜更けにひっそりと読むのがふさわしい。

ふつうの人に、突然ふりかかる不幸な出来事。
そんな時に見え隠れする、人の心の闇。
見たくなかった人間の醜い心。
それは愛情や親切と紙一重に存在する。

どんな人にでも不幸はふりかかる事がありえるし、ごくふつうの人が恐ろしい事をしでかす時もある。
そう、きっと私も。
それを承知で、その上で闇をのりこえ、幸せになるよう努めるべきだ。
と、言われてるかのようだった。

川崎の旅籠屋の娘、おちかは、実家で不幸な事件に出会い、心を閉ざしたまま、江戸にある叔父夫婦の元に預けられる。

そこで、叔父の道楽に付き合わされ、摩訶不思議な話を叔父に代わって聞き集める、という仕事をすることに。
そのうちに、
「大変な目に遭ったのは自分だけではない」
という、決して仲間意識とか優越感ではない共感や、さまざまなものの見方を得て、少しずつ強い心を得るようになる。

この、訪れる客が語る物語が、えもいわれず怖い。
人の心の闇と、怪奇ホラーがちょっとずつ入り混じって、怖さの中に人の弱さが持つ悲しさが見えて、とても上手いと思う。

客が語る物語の一話一話は面白いのだが、最後に、それまでの話や登場人物が全てつながるようになるのが、やや強引。そして突然ファンタジーというか、それまでは妖のものは、その影らしきものは見えても本当に存在するかどうかわからない、くらいかすかな存在だったのが、堂々と現れて、おちかと対決する羽目になる展開に、違和感を感じる。
文:◎

古代中国を舞台にした6つの短編。
いずれも、ちょっと幻想的で、ミステリアスな物語。この作者の静かな文体がよく似合っている。

1つ1つの物語のストーリーがすごく面白いかというと、そうでもないのだが、淡々とした穏やかな、でも清潔な色気のある雰囲気が好きで、再読してしまう。

何が色気かというと、どの話にも、ひどく魅力的な女性が出てきて、その描写がとても美しい。
漢字の使い方がとてもうまいなあ、と感心する。

女性の裸体についての描写は・・・
『女は息を呑むような美しさであった。窈(くら)さの底に横たわった全身から虹が立つようにみえた。』だとか。
『女の首が皎(しろ)く浮いた。』だとか。

ラブシーンはこんな感じ。
『淡いかおりが妻の領(えり)のあたりから立っている。そのかおりに添うように疾は妻の胸に手をいれた。
「あ、主よ」
妻は領のうえから疾の手をおさえた。そのしぐさにも夭々(ようよう)たるかおりがうしなわれていない。』

月夜に水浴する女性については、
『月光のせいであろうか、女の肌はこの世ならぬ美しさで、光って落ちる水滴は真珠のようにみえた。』

女性の髪については、
『月光が音をたててながれたかとおもったのは、髪がゆれたせいであった。』
だとか、だとか。

これが私と同じ「人間の女」というカテゴリに属する生き物なんだろうか!?と思うような美しさ。かなり大げさな描写だが、ずっとこんなのが続くワケではなく、大体がマジメな雰囲気の中に、ぽうっと光るようにこういう描写が潜むところがよい。

また、途中、こんな漢詩が出てくる。

桃の夭々(ようよう)たる灼々(しゃくしゃく)たるその華、この子ここに帰(とつ)げば、その室家(しっか)に宜しからん

『十五歳くらいの、美しさに艶がくわわろうとする少女』をうたった詩だが、この詩は、そういえば、「「サヨナラ」ダケガ人生カ―漢詩七五訳に遊ぶ」で読んだなあ、と再会をなつかしんだ。とても可愛らしくてメデたい感じがよくて気に入った詩の1つだった。
こういう本の世界での再会は、なにげに嬉しい。
全文は下記のとおり。

桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼(しゃくしゃく)たる 其の華
之(こ)の子于(ここ)に帰(とつ)ぐ
其の室家(しっか)に宜しからん

桃の夭夭たる
有(また)賁(ふん)たり其の実
之の子于に帰ぐ
其の家室(かしつ)に宜しからん

桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁(しんしん)たり
之の子于に帰ぐ
其の家人(かしつ)に宜しからん
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